が多くなり、寛永から二百年余も経った安政となっては、松前にあった士族邸の存しているものは少なかった。稀にはそれが現存していて、私の父に賜わった邸は、右の『松前引ケ』のものでもあろうかといわれた。それだけ旧いものであった事がわかる。
 この松前からの城移しの事について、ついでながらいい添えて置く事がある。それは松前の風習として漁夫の妻たるものは多く城下その他へ魚を売りに来るが、『ごろうびつ』という桶の中に白魚という魚を入れて、それを頭上に頂いて、『白魚《しらいお》かエー、白魚かエー、』と言って売り歩く。それをオタタと呼んでいた。このごろうびつという物の起りは、加藤家で城移しをする時、士民共にその手伝いをしたが、松前の漁夫の妻は大きな桶に砂利を入れて運んで城移しの御用を勤めた。その御用櫃といったのを後に訛ってこう言ったものだと伝えられている。これは藩地でもこの地に限る風習で、かの大原女が柴を頂いているように、魚を入れた桶を頂いている姿といい、またその売声といい、一種|可笑《おかし》なものである。
 この私の邸は長く住まわないで、その年末には城山の麓の堀の内という、即ち第三の郭中へ更に邸を賜
前へ 次へ
全397ページ中104ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング