の邸というと、江戸に住んでいた折のお小屋などに比べれば頗る広い、まず十四畳敷も二間あり、それに準じて居間部屋台所等もカナリ広い。その他門長屋には家来なども住ませる事になっていた。尤も京都に居た頃には藩邸の御殿を仮住居としていたので、それに比すれば規模も小さく※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]末《そまつ》ではあれど、これが自分の邸だと思うと何だか嬉しい。しかしこの邸は士族屋敷の中では旧い建物で、畳等も汚くなっていたから、祖母や母はこんな汚い所へ住まねばならぬかといって眉を顰めていた。
 その内に、段々と人が来ての話に、この邸は『松前《まさき》引《び》ケ』の邸であろうという事であった。この『松前引ケ』という事について少しく説明すると、元来この松山城は、もと海岸の松前という所に在って、徳川の初年には加藤左馬助嘉明が住んでいたが、規模が小さいので、この松山へ城替えをした。その時、松前に在った士族邸を、松山へ引いて来て士族を住まわせたのであるが、その後、加藤家に代ったのが蒲生家で、蒲生家に代ったのが松平家(今の久松家)即ち私の旧藩主である。それ故松平家以後は士族屋敷も新築するもの
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