は何事をも知りはしない。理智はすべてを常識化し、神話に通俗の解説をする。しかも宇宙の隠れた意味は、常に通俗以上である。だからすべての哲学者は、彼らの窮理の最後に来て、いつも詩人の前に兜《かぶと》を脱いでる。詩人の直覚する超常識の宇宙だけが、真のメタフィジックの実在なのだ。
こうした思惟《しい》に耽《ふけ》りながら、私はひとり秋の山道を歩いていた。その細い山道は、経路に沿うて林の奥へ消えて行った。目的地への道標として、私が唯一のたよりにしていた汽車の軌道《レール》は、もはや何所にも見えなくなった。私は道をなくしたのだ。
「迷い子!」
瞑想から醒めた時に、私の心に浮んだのは、この心細い言葉であった。私は急に不安になり、道を探そうとしてあわて出した。私は後へ引返して、逆に最初の道へ戻《もど》ろうとした。そして一層地理を失い、多岐に別れた迷路の中へ、ぬきさしならず入ってしまった。山は次第に深くなり、小径は荊棘《いばら》の中に消えてしまった。空《むな》しい時間が経過して行き、一人の樵夫《きこり》にも逢《あ》わなかった。私はだんだん不安になり、犬のように焦燥しながら、道を嗅《か》ぎ出そうとして歩き廻った。そして最後に、漸《ようや》く人馬の足跡のはっきりついた、一つの細い山道を発見した。私はその足跡に注意しながら、次第に麓《ふもと》の方へ下って行った。どっちの麓に降りようとも、人家のある所へ着きさえすれば、とにかく安心ができるのである。
幾時間かの後、私は麓へ到着した。そして全く、思いがけない意外の人間世界を発見した。そこには貧しい農家の代りに、繁華な美しい町があった。かつて私の或る知人が、シベリヤ鉄道の旅行について話したことは、あの満目|荒寥《こうりょう》たる無人の曠野《こうや》を、汽車で幾日も幾日も走った後、漸く停車した沿線の一小駅が、世にも賑《にぎ》わしく繁華な都会に見えるということだった。私の場合の印象もまた、おそらくはそれに類した驚きだった。麓の低い平地へかけて、無数の建築の家屋が並び、塔や高楼が日に輝やいていた。こんな辺鄙《へんぴ》な山の中に、こんな立派な都会が存在しようとは、容易に信じられないほどであった。
私は幻燈を見るような思いをしながら、次第に町の方へ近付いて行った。そしてとうとう、自分でその幻燈の中へ這入《はい》って行った。私は町の或る狭い横丁《よこちょう》から、胎内めぐりのような路《みち》を通って、繁華な大通《おおどおり》の中央へ出た。そこで目に映じた市街の印象は、非常に特殊な珍しいものであった。すべての軒並《のきなみ》の商店や建築物は、美術的に変った風情《ふぜい》で意匠され、かつ町全体としての集合美を構成していた。しかもそれは意識的にしたのでなく、偶然の結果からして、年代の錆《さび》がついて出来てるのだった。それは古雅で奥床《おくゆか》しく、町の古い過去の歴史と、住民の長い記憶を物語っていた。町幅は概して狭く、大通でさえも、漸く二、三|間《げん》位であった。その他の小路は、軒と軒との間にはさまれていて、狭く入混《いりこ》んだ路地《ろじ》になってた。それは迷路のように曲折しながら、石畳のある坂を下に降りたり、二階の張り出した出窓の影で、暗く隧道《トンネル》になった路をくぐったりした。南国の町のように、所々に茂った花樹が生《は》え、その附近には井戸があった。至るところに日影が深く、町全体が青樹の蔭のようにしっとりしていた。娼家《しょうか》らしい家が並んで、中庭のある奥の方から、閑雅な音楽の音が聴《きこ》えて来た。
大通の街路の方には、硝子窓のある洋風の家が多かった。理髪店の軒先には、紅白の丸い棒が突き出してあり、ペンキの看板に Barbershop と書いてあった。旅館もあるし、洗濯屋《せんたくや》もあった。町の四辻に写真屋があり、その気象台のような硝子の家屋に、秋の日の青空が侘《わび》しげに映っていた。時計屋の店先には、眼鏡をかけた主人が坐って、黙って熱心に仕事をしていた。
街《まち》は人出で賑やかに雑鬧《ざっとう》していた。そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひっそりと静まりかえって、深い眠りのような影を曳《ひ》いてた。それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであった。だがそればかりでなく、群集そのものがまた静かであった。男も女も、皆上品で慎み深く、典雅でおっとりとした様子をしていた。特に女性は美しく、淑《しと》やかな上にコケチッシュであった。店で買物をしている人たちも、往来で立話をしている人たちも、皆が行儀よく、諧調《かいちょう》のとれた低い静かな声で話をしていた。それらの話や会話は、耳の聴覚で聞くよりは、何かの或る柔らかい触覚で、手触《てざわ》りに意味を探るというような趣きだっ
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング