猫町
散文詩風な小説
萩原朔太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蠅《はえ》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)あの満目|荒寥《こうりょう》たる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いている
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蠅《はえ》を叩《たた》きつぶしたところで、
蠅の「物そのもの」は死には
しない。単に蠅の現象をつぶ
したばかりだ。――
    ショウペンハウエル。

     1

 旅への誘《いざな》いが、次第に私の空想《ロマン》から消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメージするだけでも心が躍《おど》った。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教えてくれた。何処《どこ》へ行って見ても、同じような人間ばかり住んでおり、同じような村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。田舎《いなか》のどこの小さな町でも、商人は店先で算盤《そろばん》を弾《はじ》きながら、終日白っぽい往来を見て暮しているし、官吏は役所の中で煙草《タバコ》を吸い、昼飯の菜のことなど考えながら、来る日も来る日も同じように、味気ない単調な日を暮しながら、次第に年老いて行く人生を眺《なが》めている。旅への誘いは、私の疲労した心の影に、とある空地《あきち》に生《は》えた青桐《あおぎり》みたいな、無限の退屈した風景を映像させ、どこでも同一性の法則が反覆している、人間生活への味気ない嫌厭《けんえん》を感じさせるばかりになった。私はもはや、どんな旅にも興味とロマンスをなくしてしまった。
 久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔《ひしょう》し得る唯一の瞬間、即《すなわ》ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。と言ってしまえば、もはやこの上、私の秘密について多く語る必要はないであろう。ただ私の場合は、用具や設備に面倒な手間がかかり、かつ日本で入手の困難な阿片《あへん》の代りに、簡単な注射や服用ですむモルヒネ、コカインの類を多く用いたということだけを附記しておこう。そうした麻酔によるエクスタシイの夢の中で、私の旅行した国々のことについては、此所《ここ》に詳しく述べる余裕がない。だがたいていの場合、私は蛙《かえる》どもの群がってる沼沢地方や、極地に近く、ペンギン鳥のいる沿海地方などを彷徊《ほうかい》した。それらの夢の景色の中では、すべての色彩が鮮《あざ》やかな原色をして、海も、空も、硝子《ガラス》のように透明な真青《まっさお》だった。醒《さ》めての後にも、私はそのヴィジョンを記憶しており、しばしば現実の世界の中で、異様の錯覚を起したりした。
 薬物によるこうした旅行は、だが私の健康をひどく害した。私は日々に憔悴《しょうすい》し、血色が悪くなり、皮膚が老衰に澱《よど》んでしまった。私は自分の養生《ようじょう》に注意し始めた。そして運動のための散歩の途中で、或《あ》る日偶然、私の風変りな旅行癖を満足させ得る、一つの新しい方法を発見した。私は医師の指定してくれた注意によって、毎日家から四、五十町(三十分から一時間位)の附近を散歩していた。その日もやはり何時《いつ》も通りに、ふだんの散歩区域を歩いていた。私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解《わか》らなくしてしまった。元来私は、磁石の方角を直覚する感官機能に、何かの著るしい欠陥をもった人間である。そのため道のおぼえが悪く、少し慣れない土地へ行くと、すぐ迷児《まいご》になってしまった。その上私には、道を歩きながら瞑想《めいそう》に耽《ふけ》る癖があった。途中で知人に挨拶《あいさつ》されても、少しも知らずにいる私は、時々自分の家のすぐ近所で迷児になり、人に道をきいて笑われたりする。かつて私は、長く住んでいた家の廻《まわ》りを、塀《へい》に添うて何十回もぐるぐると廻り歩いたことがあった。方向観念の錯誤から、すぐ目の前にある門の入口が、どうしても見つからなかったのである。家人は私が、まさしく狐《きつね》に化かされたのだと言った。狐に化かされるという状態は、つまり心理学者のいう三半規管の疾病であるのだろう。なぜなら学者の説によれば、方角を知覚する特殊の機能は、耳の中にある三半規管の作用だと言うことだから。
 余事はとにかく、私は道に迷って困惑しながら、当推
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