た。とりわけ女の人の声には、どこか皮膚の表面を撫《な》でるような、甘美でうっとりとした魅力があった。すべての物象と人物とが、影のように往来していた。
 私が始めて気付いたことは、こうした町全体のアトモスフィアが、非常に繊細な注意によって、人為的に構成されていることだった。単に建物ばかりでなく、町の気分を構成するところの全神経が、或る重要な美学的意匠にのみ集中されていた。空気のいささかな動揺にも、対比、均斉《きんせい》、調和、平衡等の美的法則を破らないよう、注意が隅々《すみずみ》まで行き渡っていた。しかもその美的法則の構成には、非常に複雑な微分数的計算を要するので、あらゆる町の神経が、非常に緊張して戦《おのの》いていた。例《たと》えばちょっとした調子はずれの高い言葉も、調和を破るために禁じられる。道を歩く時にも、手を一つ動かす時にも、物を飲食する時にも、考えごとをする時にも、着物の柄を選ぶ時にも、常に町の空気と調和し、周囲との対比や均斉を失わないよう、デリケートな注意をせねばならない。町全体が一つの薄い玻璃《はり》で構成されてる、危険な毀《こわ》れやすい建物みたいであった、ちょっとしたバランスを失っても、家全体が崩壊して、硝子が粉々に砕けてしまう。それの安定を保つためには、微妙な数理によって組み建てられた、支柱の一つ一つが必要であり、それの対比と均斉とで、辛《かろ》うじて支《ささ》えているのであった。しかも恐ろしいことには、それがこの町の構造されてる、真の現実的な事実であった。一つの不注意な失策も、彼らの崩壊と死滅を意味する。町全体の神経は、そのことの危懼《きぐ》と恐怖で張りきっていた。美学的に見えた町の意匠は、単なる趣味のための意匠でなく、もっと恐ろしい切実の問題を隠していたのだ。
 始めてこのことに気が付いてから、私は急に不安になり、周囲の充電した空気の中で、神経の張りきっている苦痛を感じた。町の特殊な美しさも、静かな夢のような閑寂さも、かえってひっそりと気味が悪く、何かの恐ろしい秘密の中で、暗号を交《かわ》しているように感じられた。何事かわからない、或る漠然《ばくぜん》とした一つの予感が、青ざめた恐怖の色で、忙がしく私の心の中を馳《か》け廻った。すべての感覚が解放され、物の微細な色、匂《にお》い、音、味、意味までが、すっかり確実に知覚された。あたりの空気には、死屍《しし》のような臭気が充満して、気圧が刻々に嵩《たか》まって行った。此所《ここ》に現象しているものは、確かに何かの凶兆である。確かに今、何事かの非常が起る! 起きるにちがいない!
 町には何の変化もなかった。往来は相変らず雑鬧して、静かに音もなく、典雅な人々が歩いていた。どこかで遠く、胡弓《こきゅう》をこするような低い音が、悲しく連続して聴えていた。それは大地震の来る一瞬前に、平常と少しも変らない町の様子を、どこかで一人が、不思議に怪しみながら見ているような、おそろしい不安を内容した予感であった。今、ちょっとしたはずみで一人が倒れる。そして構成された調和が破れ、町全体が混乱の中に陥入《おちい》ってしまう。
 私は悪夢の中で夢を意識し、目ざめようとして努力しながら、必死に※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いている人のように、おそろしい予感の中で焦燥した。空は透明に青く澄んで、充電した空気の密度は、いよいよ刻々に嵩まって来た。建物は不安に歪《ゆが》んで、病気のように瘠《や》せ細って来た。所々に塔のような物が見え出して来た。屋根も異様に細長く、瘠せた鶏の脚《あし》みたいに、へんに骨ばって畸形《きけい》に見えた。
「今だ!」
 と恐怖に胸を動悸《どうき》しながら、思わず私が叫んだ時、或る小さな、黒い、鼠《ねずみ》のような動物が、街の真中を走って行った。私の眼には、それが実によくはっきりと映像された。何かしら、そこには或る異常な、唐突な、全体の調和を破るような印象が感じられた。
 瞬間。万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人《なんぴと》にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭《ひげ》の生《は》えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。
 戦慄《せんりつ》から、私は殆《ほと》んど息が止まり、正に昏倒《こんとう》するところであった。これは人間の住む世界でなくて、猫ばかり住んでる町ではないのか。一体どうしたと言うのだろう。こんな現象が信じられるものか。たしかに今、私の頭脳はどうかしている。自分は幻影を見ているのだ。さもなけれ
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