ばつて居た。その板塀《いたべい》で囲まれた庭の彼方《かなた》、倉庫の並ぶ空地《あきち》の前を、黒い人影が通つて行く。空には煤煙《ばいえん》が微《かす》かに浮び、子供の群集する遠い声が、夢のやうに聞えて来る。広いがらん[#「がらん」に傍点]とした広間《ホール》の隅で、小鳥が時時|囀《さえず》つて居た。ヱビス橋の側に近く、晩秋の日の午後三時。コンクリートの白つぽい床、所在のない食卓《テーブル》、脚の細い椅子の数数。
 ああ神よ! もう取返す術《すべ》もない。私は一切を失い尽した。けれどもただ、ああ何といふ楽しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信じせしめよ。私の空洞《うつろ》な最後の日に。
 今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に満足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麦酒《ビール》を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生よ。(『四季』1936年5月号)

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 虫

 或る詰らない何かの言葉が、時としては毛虫のやうに、脳裏の中に意地わるくこびりついて、それの意味が見出される迄、執念深く苦しめるものである。或る日の午後、私は町を歩きながら、ふと「鉄筋コンクリート」といふ言葉を口に浮べた。何故にそんな言葉が、私の心に浮んだのか、まるで理由がわからなかつた。だがその言葉の意味の中に、何か常識の理解し得ない、或る幽幻な哲理の謎《なぞ》が、神秘に隠されてゐるやうに思はれた。それは夢の中の記憶のやうに、意識の背後にかくされて居り、縹渺《ひようびよう》として捉へがたく、そのくせすぐ目の前にも、捉《とら》へることができるやうに思はれた。何かの忘れたことを思ひ出す時、それがつい近くまで来て居ながら、容易に思ひ出せない時のあの焦燥。多くの人人が、たれも経験するところの、あの苛苛《いらいら》した執念の焦燥が、その時以来|憑《つ》きまとつて、絶えず私を苦しくした。家に居る時も、外に居る時も、不断に私はそれを考へ、この詰らない、解りきつた言葉の背後にひそんでゐる、或る神秘なイメ−ヂの謎を摸索《もさく》して居た。その憑き物のやうな言葉は、いつも私の耳元で囁《ささや》いて居た。悪いことにはまた、それには強い韻律的の調子があり、一度おぼえた詩語のやうに、意地わるく忘れることができないのだ。「テツ、キン、コン」と、それは三シラブルの押韻《おういん》をし、最後に長く「クリート」と曳《ひ》くのであつた。その神秘的な意味を解かうとして、私は偏執狂のやうになつてしまつた。明らかにそれは、一つの強迫観念にちがひなかつた。私は神経衰弱病にかかつて居たのだ。
 或る日、電車の中で、それを考へつめてる時、ふと隣席の人の会話を聞いた。
 「そりや君。駄目《だめ》だよ。木造ではね。」
 「やつぱり鉄筋コンクリートかな。」
 二人づれの洋服紳士は、たしかに何所《どこ》かの技師であり、建築のことを話して居たのだ。だが私には、その他の会話は聞えなかつた。ただその単語だけが耳に入つた。「鉄筋コンクリート!」
 私は跳《と》びあがるやうなショツクを感じた。さうだ。この人たちに聞いてやれ。彼等は何でも知つてるのだ。機会を逸するな。大胆にやれ。と自分の心をはげましながら
 「その……ちよいと……失礼ですが……。」
 と私は思ひ切つて話しかけた。
 「その……鉄筋コンクリート……ですな。エエ……それはですな。それはつまり、どういふわけですかな。エエそのつまり言葉の意味……といふのはその、つまり形而上《けいじじよう》の意味……僕はその、哲学のことを言つてるのですが……。」
 私は妙に舌がどもつて、自分の意志を表現することが不可能だつた。自分自身には解つて居ながら、人に説明することができないのだつた。隣席の紳士は、吃驚《びつくり》したやうな表情をして、私の顔を正面から見つめて居た。私が何事をしやべつて居るのか、意味が全《まる》で解らなかつたのである。それから隣の連《つれ》を顧み、気味悪さうに目を見合せ、急にすつかり黙つてしまつた。私はテレかくしにニヤニヤ笑つた。次の停車場についた時、二人の紳士は大急ぎで席を立ち、逃げるやうにして降りて行つた。
 到頭或る日、私はたまりかねて友人の所へ出かけて行つた。部屋に入ると同時に、私はいきなり質問した。
 「鉄筋コンクリートつて、君、何のことだ。」
 友は呆気《あつけ》にとられながら、私の顔をぼんやり見詰めた。私の顔は岩礁《がんしよう》のやうに緊張して居た。
 「何
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