混雑して、どの卓にも客が溢《あふ》れて居た。若い夫婦づれや、学生の一組や、子供をつれた母親やが、あちこちの卓に坐つて、彼等自身の家庭のことや、生活のことやを話して居た。それらの話は、他の人人と関係がなく、大勢の中に混つて、彼等だけの仕切られた会話であつた。そして他の人人は、同じ卓に向き合つて坐りながら、隣人の会話とは関係なく、夫夫《それぞれ》また自分等だけの世界に属する、勝手な仕切られた話をしやべつて居た。
この都会の風景は、いつも無限に私の心を楽しませる。そこでは人人が、他人の領域と交渉なく、しかもまた各人が全体としての雰囲気《ふんいき》(群集の雰囲気)を構成して居る。何といふ無関心な、伸伸《のびのび》とした、楽しい忘却をもつた雰囲気だらう。
黄昏《たそがれ》になつて、私は公園の椅子に坐つて居た。幾組もの若い男女が、互に腕を組み合せながら、私の坐つてる前を通つて行つた。どの組の恋人たちも、嬉《うれ》しく楽しさうに話をして居た。そして互にまた、他の組の恋人たちを眺め合ひ、批判し合ひ、それの美しい伴奏から、自分等の空にひろがるところの、恋の楽しい音楽を二重にした。
一組の恋人が、ふと通りかかつて、私の椅子の側に腰をおろした。二人は熱心に、笑ひながら、羞《はに》かみながら嬉しさうに囁《ささや》いて居た。それから立ち上り、手をつないで行つてしまつた。始めから彼等は、私の方を見向きもせず、私の存在さへも、全く認識しないやうであつた。
都会生活とは、一つの共同椅子の上で、全く別別の人間が別別のことを考へながら、互に何の交渉もなく、一つの同じ空を見てゐる生活――群集としての生活――なのである。その同じ都会の空は、あの宿なしのルンペンや、無職者や、何処《どこ》へ行くといふあてもない人間やが、てんでに自分のことを考へながら、ぼんやり並んで坐つてる、浅草公園のベンチの上にもひろがつて居て、灯《ひ》ともし頃の都会の情趣を、無限に侘《わび》しげに見せるのである。
げに都会の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の単位であつて、しかも全体としての綜合《そうごう》した意志をもつてる。だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全体の動く意志の中で、私がまた物を考へ、為《な》し、味《あじわ》ひ、人人と共に楽しんで居る。心のいたく疲れた人、思い悩みに苦しむ人、わけても孤独を寂しむ人、孤独を愛する人によつて、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。ボードレエルと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄はう。――都会は私の恋人。群集は私の家郷。ああ何処までも、何処までも、都会の空を徘徊《はいかい》しながら、群集と共に歩いて行かう。浪の彼方《かなた》は地平に消える、群集の中を流れて行かう。(『四季』1935年2月号)
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虚無の歌
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ尽せり。「氷島」
午後の三時。広漠とした広間《ホール》の中で、私はひとり麦酒《ビール》を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さへもない。煖炉《ストーブ》は明るく燃え、扉《ドア》の厚い硝子《ガラス》を通して、晩秋の光が侘《わび》しく射《さ》してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓《テーブル》、脚の細い椅子の数数。
ヱビス橋の側《そば》に近く、此所の侘しいビヤホールに来て、私は何を待つてるのだらう? 恋人でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤独の椅子を探して、都会の街街《まちまち》を放浪して来た。そして最後に、自分の求めてるものを知つた。一杯の冷たい麦酒《ビール》と、雲を見てゐる自由の時間! 昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだつた。
かつて私は、精神のことを考へてゐた。夢みる一つの意志。モラルの体熱。考へる葦《あし》のをののき。無限への思慕。エロスへの切ない祈祷《いのり》。そして、ああそれが「精神」といふ名で呼ばれた、私の失はれた追憶[#「失はれた追憶」に二重丸傍点]だつた。かつて私は、肉体のことを考へて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖し、不断にそれの解体を強ひるところの、無機物に対して抗争しながら、悲壮に悩んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲しい物を。肉体!ああそれも私に遠く、過去の追憶にならうとしてゐる。私は老い、肉慾することの熱を無くした。墓と、石と、蟾蜍《ひきがえる》とが、地下で私を待つてるのだ。
ホールの庭には桐《きり》の木が生《は》え、落葉が地面に散ら
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