実在して居る。何がこの下に、墓の下にあるだらう。我我はそれを知らない。これは墓である! 墓である!(『新文学準備倶楽部』1929年6月号)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
自殺の恐ろしさ
自殺そのものは恐ろしくない。自殺に就《つ》いて考へるのは、死の刹那《せつな》の苦痛でなくして、死の決行された瞬時に於ける、取り返しのつかない悔恨である。今、高層建築の五階の窓から、自分は正に飛び下りようと用意して居る。遺書も既に書き、一切の準備は終つた。さあ! 目を閉ぢて、飛べ! そして自分は飛びおりた。最後の足が、遂に窓を離れて、身体《からだ》が空中に投げ出された。
だがその時、足が窓から離れた一瞬時、不意に別の思想が浮び、電光のやうに閃《ひら》めいた。その時始めて、自分ははつきり[#「はつきり」に傍点]と生活の意義を知つたのである。何たる愚事ぞ。決して、決して、自分は死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る。断じて自分は死にたくない。死にたくない。だがしかし、足は既に窓から離れ、身体は一直線に落下して居る。地下には固い鋪石。白いコンクリート。血に塗《まみ》れた頭蓋骨《ずがいこつ》! 避けられない決定!
この幻想のおそろしさから、私はいつも白布のやうに蒼ざめてしまふ。何物も、何物も、決してこれより恐ろしい空想はない。しかもこんな事実が、実際に有り得ないといふことは無いだらう。既に死んでしまつた自殺者等が、再度もし生きて口を利《き》いたら、おそらくこの実験を語るであらう。彼等はすべて、墓場の中で悔恨してゐる幽霊である。百度も考へて恐ろしく、私は夢の中でさへ戦慄する。(『セルパン』1931年5月号)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
詩人の死ぬや悲し
ある日の芥川龍之介が、救ひのない絶望に沈みながら、死の暗黒と生の無意義について私に語つた。それは語るのでなく、むしろ訴へてゐるのであつた。
「でも君は、後世に残るべき著作を書いている。その上にも高い名声がある。」
ふと、彼を慰めるつもりで言つた私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟《しげき》し、真剣になつて怒らせてしまつた。あの小心で、羞《はに》かみやで、いつもストイツクに感情を隠す男が、その時顔色を変へて烈《はげ》しく言つた。
「著作? 名声? そんなものが何になる!」
独逸《ドイツ》のある瘋癲《ふうてん》病院で、妹に看病されながら暮して居た、晩年の寂しいニイチエが、或る日ふと空を見ながら、狂気の頭脳に記憶をたぐつて言つた。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。
あの傲岸《ごうがん》不遜《ふそん》のニイチエ。自ら称して「人類史以来の天才」と傲語したニイチエが、これはまた何と悲しく、痛痛しさの眼に沁《し》みる言葉であらう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める為《ため》に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうにまた、空洞《うつろ》な悲しいものであつたらう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」
ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。トラフアルガルの海戦で重傷を負つたネルソンが、軍医や部下の幕僚《ばくりよう》たちに囲まれながら、死にのぞんで言つた言葉は有名である。「余は祖国に対する義務を果たした。」と。ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東郷《とうごう》大将やの人人が、おそらくはまた死の床で、静かに過去を懐想しながら、自分の心に向つて言つたであらう。
「余は、余の為《な》すべきすべてを尽した。」と。そして安らかに微笑しながら、心に満足して死んで行つた。
それ故《ゆえ》に諺《ことわざ》は言ふ。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善《よ》しと。だが我我の側の地球に於《おい》ては、それが逆に韻律され、アクセントの強い言葉で、もつと悩み深く言ひ換へられる。
――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!(『行動』1934年11月号)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
群集の中に居て
群集は孤独者の家郷である。ボードレエル
都会生活の自由さは、人と人との間に、何の煩瑣《はんさ》な交渉もなく、その上にまた人人が、都会を背景にするところの、楽しい群集を形づくつて居ることである。
昼頃になつて、私は町のレストラントに坐つて居た。店は賑《にぎ》やかに
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング