。人は自分の思ひを自然に映して、それぞれの景色の中に居住してゐる。
大井町!
煙突と工場と、さうして労働者の群がつてゐる、あの賑《にぎ》やかでさびしい街に、私は私の住居を見つけた。私の泥長靴《どろながぐつ》をひきずりながら、まいにちあの景色の中を歩いてゐた。何といふ好い町だらう。私は工場裏の路地を歩いて、とある長屋の二階窓から、鼠《ねずみ》の死骸《しがい》を投げつけられた。意地の悪い土方の嬶等が、いつせいに窓から顔を突き出し、ひひひひひと言つて笑つた。何といふうれしい出来事でせう。私はかういふ人生の風物からどんな哲学でも考へうるのだ。
どうせ私のやうな放浪者には、東京中を探したつて、大井町より好い所はありはしない。冬の日の空に煤煙! さうして電車を降《お》りた人人が、みんな煉瓦の建物に吸ひこまれて行く。やたら凸凹《でこぼこ》した、狭くきたない混雑の町通り。路地は幌馬車でいつもいつぱい。それで私共の家族といへば、いつも貧乏にくらしてゐるのだ。(年刊『詩と随筆集』第一輯1928年5月発行)
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郵便局
郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]の存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人人は窓口に群がつてゐる。わけても貧しい女工の群《むれ》が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつくつて押し合ってゐる。或る人人は為替《かわせ》を組み入れ、或る人人は遠国への、かなしい電報を打たうとしてゐる。
いつも急がしく、あわただしく、群衆によつてもまれてゐる、不思議な物悲しい郵便局よ。私はそこに来て手紙を書き、そこに来て人生の郷愁を見るのが好きだ。田舎の粗野な老婦が居て、側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願してゐる。彼女の貧しい村の郷里で、孤独に暮してゐる娘の許《もと》へ、秋の袷《あわせ》や襦袢《じゆばん》やを、小包で送つたといふ通知である。
郵便局! 私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこの薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いてゐる若い女よ! 鉛筆の心も折れ、文字も涙によごれて乱れてゐる。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだらう。我我もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活《ライフ》の港港を漂泊してゐる。永遠に、永遠に、我我の家なき魂は凍えてゐるのだ。
郵便局といふものは、港や停車場と同じやうに、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]だ。(『若草』1929年3月号)
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墓
これは墓である。蕭条たる風雨の中で、かなしく黙しながら、孤独に、永遠の土塊《つちくれ》が存在してゐる。
何がこの下に、墓の下にあるのだらう。我我はそれを考へ得ない。おそらくは深い穴が、がらんどうに掘られてゐる。さうして僅《わず》かばかりの物質――人骨や、歯や、瓦《かわら》や――が、蟾蜍《ひきがえる》と一緒に同棲《どうせい》して居る。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名誉も。またその名誉について感じ得るであらう存在もない。
尚《な》ほしかしながら我我は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我はいつでも、死後の「無」について信じてゐる。何物も残りはしない。我我の肉体は解体して、他の物質に変つて行く。思想も、神経も、感情も、そしてこの自我の意識する本体すらも、空無の中に消えてしまふ。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――死後の生活――を信じよう。我我は死後を考へ、いつも風にやうに哄笑《こうしよう》するのみ!
しかしながら尚ほ、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我は不運な芸術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我我は孤独に耐へて、ただ後世にまで残さるべき、死後の名誉を考へてゐる。ただそれのみを考へてゐる。けれどもああ、人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我我の一切は終つてしまふ。後世になつてみれば、墓場の上に花環を捧《ささ》げ、数万の人が自分の名作を讃《たた》へるだらう。ああしかし! だれがその時墓場の中で、自分の名誉を意識し得るか? 我我は生きねばならない。死後にも尚ほ且《か》つ、永遠に墓場の中で、生きて居なければならない[#「生きて居なければならない」に二重丸傍点]のだ。
蕭条たる風雨の中で、さびしく永遠に黙しながら、無意味の土塊が
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