しかしながら理性が、たちまちにして私の幻覚を訂正した。だれが夢遊病者でなく、夢を白日に信ずるだらうか。愚かな、馬鹿馬鹿しい、ありふれた錯覚を恥ぢながら、私はまた坂を降つて来た。然《しか》り――。私は今もそれを信じてゐる。坂の向うにある風景は、永遠の『錯誤』にすぎないといふことを。(『令女界』1927年9月号)

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 大井町

 人生はふしぎなもので、無限の悲しい思ひやあこがれにみたされてゐる。人はさうした心境から、自分のすがた[#「すがた」に傍点]を自然に映《うつ》して、或は現実の環境に、或は幻想する思ひの中に、それぞれの望ましい地方を求めて、自分の居る景色の中に住んでるものだ。たとへてみれば、或る人は平和な田園に住家《すみか》を求めて、牧場や農場のある景色の中を歩いてゐる。そして或る人は荒寥《こうりよう》とした極光地方で、孤独のぺんぎん鳥のやうにして暮してゐるし、或る人は都会の家並の混《こ》んでる中で、賭博場や、洗濯屋や、きたない酒場や理髪店のごちやごちやしてゐる路地《ろじ》を求めて、毎日用もないのにぶらついてゐる。或る人たちは、郊外の明るい林を好んで、若い木の芽や材木の匂《にお》ひを嗅《か》いでゐるのに、或る人は閑静の古雅を愛して、物寂《ものさ》びた古池に魚の死体が浮いてるやうな、芭蕉庵《ばしようあん》の苔《こけ》むした庭にたたずみ、いつもその侘しい日影を見つめて居る。
 げに人生はふしぎなもので、無限のかなしい思ひやあこがれにみたされてゐる。人はその心境をもとめるために、現実にも夢の中にも、はてなき自然の地方を徘徊《はいかい》する。さうして港の波止場《はとば》に訪ねくるとき、汽船のおーぼー[#「おーぼー」に傍点]といふ叫びを聞き、檣《ほばしら》のにぎやかな林の向うに、青い空の光るのをみてゐると、しぜんと人間の心のかげに、憂愁のさびしい涙がながれてくる。

 私が大井町へ越して来たのは、冬の寒い真中であつた。私は手に引つ越しの荷物をさげ、古ぼけた家具の類や、きたないバケツや、箒《ほうき》、炭取りの類をかかへ込んで、冬のぬかるみの街を歩き廻つた。空は煤煙でくろずみ、街の両側には、無限の煉瓦《れんが》の工場が並んでゐた。冬の日は鈍くかすんで、煙突から熊のやうな煙を吹き出してゐた。
 貧しいすがたをしたおかみさん[#「おかみさん」に傍点]が、子供を半てんおんぶで背負ひこみながら、天日のさす道を歩いてゐる。それが私のかみさんであり、その後からやくざな男が、バケツや荷をいつぱい抱へて、痩犬《やせいぬ》のやうについて行つた。

     大井町!

 かうして冬の寒い盛りに、私共の家族が引つ越しをした。裏町のきたない長屋に、貧乏と病気でふるへてゐた。ごみためのやうな庭の隅に、まいにち腰巻やおしめ[#「おしめ」に傍点]を干してゐた。それに少しばかりの日があたり、小旗のやうにひらひらしてゐた。

     大井町!

 無限にさびしい工場がならんでゐる、煤煙で黒ずんだ煉瓦の街を、大ぜいの労働者がぞろぞろと群がつてゐる。夕方は皆が食ひ物のことを考へて、きたない料理屋のごてごてしてゐる、工場裏の町通りを歩いてゐる。家家の窓は煤《すす》でくもり、硝子が小さくはめられてゐる。それに日ざしが反射して、黒くかなしげに光つてゐる。

     大井町!

 まづしい人人の群で混雑する、あの三叉《みつまた》の狭い通りは、ふしぎに私の空想を呼び起す。みじめな郵便局の前には、大ぜいの女工が群がつてゐる。どこへ手紙を出すのだらう。さうして黄色い貯金帳から、むやみに小銭をひき出してる。

 空にはいつも煤煙がある。屋台は屋台の上に重なり、泥濘のひどい道を、幌馬車《ほろばしや》の列がつながつてゆく。

     大井町!

 鉄道|工廠《こうしよう》の住宅地域! 二階建ての長屋の窓から、工夫《こうふ》のおかみさんが怒鳴つてゐる。亭主《ていしゆ》は駅の構内で働らいてゐて、真黒の石炭がらを積みあげてゐる。日ぐれになると、そのシヤベルが遠くで悲しく光つてみえる。
 長屋の硝子窓に蠅《はえ》がとまつて、いつまでもぶむぶむとうなつてゐる。どこかの長屋で餓鬼が泣いてゐる。嬶が破れるやうに怒鳴つてるので、亭主もかなしい思ひを感じてゐる。そのしやつぽ[#「しやつぽ」に傍点]を被つた労働者は、やけに石炭を運びながら、生活の没落を感じてゐる。どうせ嬶を叩《たた》き出して、宿場《しゆくば》の女郎でも引きずり込みたいと思つてゐる。
 労働者のかなしいシヤベルが、遠くの構内で光つてゐる。
 人生はふしぎなもので、無限のかなしい思ひやあこがれにみたされてゐる
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