1937年1月号)

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 貸家札

 熱帯地方の砂漠《さばく》の中で、一疋の獅子《しし》が昼寝をして居た。肢体《したい》をできるだけ長く延ばして、さもだるさうに疲れきつて。すべての猛獣の習性として、胃の中の餌物《えもの》が完全に消化するまで、おそらく彼はそのポーズで永遠に眠りつづけて居るのだらう。赤道直下の白昼《まひる》。風もなく音もない。万象《ばんしよう》の死に絶えた沈黙《しじま》の時。
 その時、不意に獅子が眠から目をさました。そして耳をそば立て、起き上り、緊張した目付をして、用心深く、機敏に襲撃の姿勢をとつた。どこかの遠い地平の影に、彼は餌物を見つけたのだ。空気が動き、万象の沈黙《しじま》が破れた。
 一人の旅行者――ヘルメツト帽を被《かぶ》り、白い洋服をきた人間が、この光景を何所《どこ》かで見て居た。彼は一言の口も利《き》かず、黙つて砂丘の上に生えてる、椰子《やし》の木の方へ歩いて行つた。その椰子の木には、ずつと前から、長い時間の風雨に曝《さら》され、一枚の古い木札が釘《くぎ》づけてあつた。

(貸家アリ。瓦斯《ガス》、水道付。日当リヨシ。)

 ヘルメツトを被つた男は、黙つてその木札をはがし、ポケツトに入れ、すたすたと歩きながら、地平線の方へ消えてしまつた。(『いのち』1937年10月号、『シナリオ研究』1937年10月号)

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 この手に限るよ

 目が醒《さ》めてから考へれば、実に馬鹿馬鹿しくつまらぬことが、夢の中では勿体《もつたい》らしく、さも重大の真理や発見のやうに思はれるのである。私はかつて夢の中で、数人の友だちと一緒に、町の或る小綺麗《こぎれい》な喫茶店に入つた。そこの給仕女に一人の悧発《りはつ》さうな顔をした、たいそう愛くるしい少女が居た。どうにかして、皆はそのメツチエンと懇意になり、自分に手なづけようと焦燥した。そこで私が、一つのすばらしいことを思ひついた。少女の見て居る前で、私は角砂糖の一つを壺《つぼ》から出した。それから充分に落着いて、さも勿体らしく、意味ありげの手付をして、それを
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