散文詩集『田舎の時計 他十二篇』
萩原朔太郎

[収録作品]
海/田舎の時計/坂/大井町/郵便局/墓/自殺の恐ろしさ/詩人の死ぬや悲し/
群集の中に居て/虚無の歌/虫/貸家札/この手に限るよ

[表記について]
●本文中、底本のルビは「《ルビ》」の形式で処理した。ルビのない漢字(語句)のあとにルビのある漢字(語句)が続く場合は、区切り線「|」を入れて、漢字(語句)とルビとの対応関係がわかるようにした。
●底本は本文は旧かな遣い、ルビは新かな遣いで編集されており、このテキストも底本に準じた。
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 海

 海を越えて、人人は向うに「ある」ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の広茫《こうぼう》とした眺《なが》めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、単調で飽きつぽい景色を見る。
 海の印象から、人人は早い疲労を感じてしまふ。浪《なみ》が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向《ひなた》の砂丘に寝ころびながら、海を見てゐる心の隅に、ある空漠たる、不満の苛《いら》だたしさを感じてくる。
 海は、人生の疲労を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切断から、限りなく単調になり、想像の棲《す》むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白昼《まひる》の太陽が及ぶ限り、その「現実」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味気がない。しかしながら物憂《ものう》き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
 海を越えて、人人は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に来て見れば、海は我我の疲労を反映する。過去の長き、厭《いと》はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人人はげつそり[#「げつそり」に傍点]とし、ものうくなり、空虚なさびしい心を感じて、磯草《いそくさ》の枯れる砂山の上にくづれてしまふ。
 人人は熱情から――恋や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人人の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬。そして夕方の疲
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