遠い田舍の自然から呼びあげる鷄《とり》のこゑです
とをてくう とをるもう とをるもう。

戀びとよ
戀びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ ほのかなる菊のにほひを
病みたる心靈のにほひのやうに
かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを。
戀びとよ
戀びとよ。

しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく。
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥
このうすい紅《べに》いろの空氣にはたへられない
戀びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく 遠い地角のはてを吹く大風《たいふう》のひびきを。
とをてくう とをるもう とをるもう。


 みじめな街燈

雨のひどくふつてる中で
道路の街燈はびしよびしよにぬれ
やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでゐる。
はうはうぼうぼうとした煙霧の中を
あるひとの運命は白くさまよふ。
そのひとは大外套に身をくるんで
まづしく みすぼらしい鳶《とんび》のやうだ。
とある建築の窓に生えて
風雨にふるへる ずつくりぬれた青樹をながめる。
その青樹の葉つぱがかれを手招き
かなしい雨の景色の中で
厭やらしく 靈魂《たましひ》のぞつとするものを感じさせた。
さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。
影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。


 恐ろしい山

恐ろしい山の相貌《すがた》をみた。
まつ暗な夜空にけむりを吹きあげてゐる
おほきな蜘蛛のやうな眼《め》である。
赤くちろちろと舌をだして
うみざりがに[#「うみざりがに」に傍点]のやうに平つくばつてる。
手足をひろくのばして麓いちめんに這ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた
さびしくおそろしい闇夜である。
がうがうといふ風が草を吹いてゐる 遠くの空で吹いてる。
自然はひつそりと息をひそめ
しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。
すぐ近いところにそびえ
怪異な相貌《すがた》が食はうとする。


 題のない歌

南洋の日にやけた裸か女のやうに
夏草の茂つてゐる波止場の向うへ ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた。
ふはふはとした雲が白くたちのぼつて
船員のすふ煙草のけむりがさびしがつてる。
わたしは鶉のやうに羽ばたきながら
さうして丈の高い野茨の上を飛びまはつた。
ああ 雲よ 船よ どこに彼女は航海の碇をすてたか
ふしぎ
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