に浮びあがり、一つの立體的な情調――即ち「詩」――として印象されるのである。之れに反して自由詩の低劣な者には、全然どこにも韻律的な魅惑がない、即ち純然たる散文として印象される。故に定律詩の失敗したものは[#「定律詩の失敗したものは」に丸傍点]、尚且つ最低價値に於ての[#「尚且つ最低價値に於ての」に丸傍点]「詩[#「詩」に丸傍点]」であることができるが[#「であることができるが」に丸傍点]、自由詩の失敗したものは[#「自由詩の失敗したものは」に丸傍点]、本質的に全く[#「本質的に全く」に丸傍点]「詩[#「詩」に丸傍点]」でない[#「でない」に丸傍点]。定律詩の困難は、最初に押韻の方則を覺え、その格調の心像を意識に把持する、即ち所謂「調子に慣れる」迄である。然るに自由詩の困難は無限である。我等は一篇毎に新しき韻律の軌道を設計せねばならぬ。永久に、最後まで、調子に慣れるといふことがない。
定律詩の形式に於ては、本質的の詩人でない人すら、尚よく技巧の學習によつて相應の階段に昇ることができる。人の知る如く、定律詩の中には教訓詩や警句詩や諷刺詩やの如き者すらある。此等の者は、情想の本質に於て詩と
前へ
次へ
全94ページ中77ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング