べき仕事は、單に情想をして軌道をすべらせるにすぎぬ。そは極めて安易であり自由である。然るに自由詩には、この便利なる「韻律の軌道」がない。我等の詩想の進行では、我等自ら軌道を作り、同時に我等自ら車を押して走らねばならぬ。之れ實に二重の困難である。言はば我等は、樂典の心像を持たずして音樂の作曲をせんとするが如し。眞に之れ「創造の創造」である。自由詩の「天才の詩形」と呼ばれる所以が此所にある。
定律詩の安易なる最大の理由は、たとへそれが失敗したものと雖も、尚相當に詩としての價値をもち得られることである。けだし定律詩には既成の必然的韻律がある故に、いかに内容の低劣な者と雖も、尚多少の韻律的美感を讀者にあたへることができる。しかして韻律的美感をあたへるものは、それ自ら既に詩である。實際、近世以前に於ては敍事詩といふ者があつた。敍事詩は、内容から言ふと明白に今日の散文であつて、歴史上の傳説や、小説的な戀物語やを、單に平面的に敍述した者にすぎないのであるが、その拍節の整然たる調律によつて、讀者をいつしか韻律の恍惚たる醉心地に導いてしまふ。したがつてその散文的な内容すらが、實體鏡で見る寫眞の如く空中
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