言ふべきでない。なぜならばそは一つの理智的な「概念」を敍したものである。そこには何等の「感情」がない。よつて以てそれが詩のリズムを生む所の内部節奏――心の中の音樂――がない。しかも彼等は、之れに外部からの音樂――詩の定まれる韻律形式――をあたへ、それの節づけによつて歌はうとする。かくて本來音樂でないものが、拍節の故に音樂として聽えてくる。本來詩でないものが、形式の故に詩として批判される。勿論こは極端の例にすぎない。けれどもこれに類した者が、一般の場合にも想像されるだらう。實際多くの定律詩人の中には、何等その心の中に詩情の醗酵せる音樂を感ずることなく、單にその手慣れたる格調上の技巧によつて、容易に低調な思想を詩に作りあげてしまふ。性來全く詩人的天質を缺いて居たと想像される所の、或る日本の老學者は、自ら「古今集を讀むこと一千遍」にして詩人に成り得た[#「成り得た」に丸傍点]と言つて居る。かくの如く定韻詩に於ては、詩の格調を會得し、その「外部からの音樂の作曲法」に熟達することによつて、とにかくにも一通りの作家となることができる。その價値の優劣を論じない限り、必しも「内部の音樂」の實在を必要と
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