れてしまつた。故にもしこの方面から觀察するならば、或る音樂家の論じた如く、今日の詩は確かに「非音樂的なもの」になつて來た。けれどもさうでなく、我我の詩に求めてゐるものは實に「内容としての音樂」である。
我我は外觀の類似から音樂に接近するのでなく、直接「音樂そのもの」の縹渺するいめえぢ[#「いめえぢ」に丸傍点]の世界へ、我我自身を飛び込ませようといふのである。かくの如き詩は、もはや「形の上での音樂」でなくして「感じの上での音樂」である。そこで奏される韻律《リズム》は、形體ある拍節でなくして、形體のない拍節である。詩の讀者等は、このふしぎなる言葉の樂器から流れてくる所の、一つの「耳に聽えない韻律」を聽き得るであらう。
「耳に聽えない韻律《リズム》」それは即ち言葉の氣韻の中に包まれた「感じとしての韻律《リズム》」である。そして實に、此所に自由詩の詩學が立脚する。過去の詩學で言はれる韻律とは、言葉の音韻の拍節正しき一定の配列を意味して居る。たとへば支那の詩の平仄律、西洋の詩の押韻律、日本の詩の語數律等、すべて皆韻律の原則によつた表現である。けれども我我の自由詩は、さういふ韻律の觀念から超越し
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