てゐる。我我の詩では、音韻が平仄や語格のために選定されない。さうでなく、我我は詩想それ自身の抑揚[#「詩想それ自身の抑揚」に丸傍点]のために音韻を使用する。即ち詩の情想が高潮する所には、表現に於てもまた高潮した音韻を用ゐ、それが低迷する所には、言葉の韻もまた靜かにさびしく沈んでくる。故にこの類の詩には、形體に現はれたる韻律の節奏がない。しかしながら情想の抑揚する氣分の上で、明らかに感じ得られる所の拍節[#「感じ得られる所の拍節」に丸傍点]があるだらう。
 定律詩と自由詩との特異なる相違を一言でいへば、實に「拍子本位」と「旋律本位」との音樂的異別である。我我が定律詩を捨てて自由詩へ走つた理由は、理論上では象徴主義の詩學に立脚してゐるが、趣味の上から言ふと、正直のところ、定律詩の韻律に退屈したのである。定律詩の音樂的效果は、主としてその明晰にして強固なる拍節にある。然るに我我の時代の趣味は、かかる強固なる拍節を悦ばない。我我の神經にまで、そはむしろ單調にして不快なる者の如く聽えてきた。我我の音樂的嗜好は、遙かに「より軟らかい拍節」と「より高調されたる旋律」とを欲してきた。即ち我我は「拍節本
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