[#「それが詩として不自然な表現であるといふ一事にある」に丸傍点]。この論旨のために、我我の反對者が提出した前述の引例は、すべて皆眞實である。實際、上古の純樸な自然詩や、人間情緒の純眞な發露である多くの民謠俗歌の類は、すべて皆一定の拍節正しき格調を以て歌はれて居る。人間本然の純樸な詩的發想は、歸せずして拍節の形式と一致して居る。不定形律の詩は決して本然の状態に見出せない。ばかりでなく、我我自身の場合を顧みてもさうである。我我の情緒が昂進して、何かの強い詩的感動に打たれる時、自然我我の言葉には抑揚がついてくる。そしてこの抑揚は、心理的必然の傾向として、常に音樂的拍節の快美な進行と一致する故に、知らず知らず一定の韻律がそこに形成されてくる。一方、詩興はまたこの韻律の快感によつて刺激され、リズムと情想とは、此所に互に相待ち相助けて、いよいよ益益詩的感興の高潮せる絶頂に我等を運んで行くのである。かくて我等の言葉はいよいよ滑らかに、いよいよ口調よく、そしていよいよ無意識に「韻律の周期的なる拍節」の形式を構成して行く。思ふにかくの如き事態は、すべての原始的な詩歌の發生の起因を説明する。詩と韻律の關
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