係は、けだし心理的にも必然の因果である如く思はれる。
 然るに我等の自由詩からは、かうした詩の本然の形式が見出せない。音樂的拍節の一定の進行は、自由詩に於て全く缺けてゐる者である。ばかりでなく、自由詩は却つてその「規則正しき拍節の進行」を忌み、俗語の所謂「調子づく」や「口調のよさ」やを淺薄幼稚なものとして擯斥する。それ故に我等は、自由詩の創作に際して、しばしば不自然の抑壓を自らの情緒に加へねばならぬ。でないならば、我等の詩興は感興に乘じて高翔し、ややもすれば「韻律の甘美な誘惑」に乘せられて、不知不覺の中に「口調の好い定律詩」に變化してしまふ恐れがある。
 元來、詩の情操は、散文の情操と性質を別にする。詩を思ふ心は、一つの高翔せる浪のやうなものである。それは常に現實的實感の上位を跳躍して、高く天空に向つて押しあげる意志であり、一つの甘美にして醗酵せる情緒である。かかる種類の情操は、決して普通の散文的情操と同じでない。したがつて詩の情操は、自然また特種な詩的表現の形式を要求する。言ひ換へれば、詩の韻律形式は、詩の發想に於て最も必然自由なる自然の表現である。然り、詩は韻律の形式に於てこそ[#
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