を破却すれば、そは即ち無韻の散文である。何で此等を「詩」と呼ぶことができようぞ。
かくの如きものは、自由詩に對する最も手強《てごは》い拒絶である。けれどもその論旨の一部は、單なる言語上の空理を爭ふにすぎない。そもそも自由詩が「散文で書いたもの」である故に、同時にそれが詩であり得ないといふ如き理窟は、理窟それ自身の詭辯的興味を除いて、何の實際的根據も現在しない。なぜといつて我等の知る如く、實際「散文で書いたもの」が、しばしば十分に詩としての魅惑をあたへるから。そしていやしくも詩としての魅惑をあたへるものは、それ自ら詩と呼んで差支へないであらう。もし我等にして、尚この上この點に關して爭ふならば、そは全く「詩」といふ言葉の文字を論議するにすぎない。暫らく我等をして、かかる概念上の空論を避けしめよ。今、我等の正に反省すべき論旨は別にある。
しばしば淺薄な思想は言ふ。「自由詩は韻律の形式に拘束されない。故に自由であり、自然である。」と。この程度の稚氣は一笑に價する。反對に、自由詩に對する非難の根柢は[#「自由詩に對する非難の根柢は」に丸傍点]、それが詩として不自然な表現であるといふ一事にある
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