虚の心に、ただ一つ何とも分らない謎が殘つて居た。
その謎は一種の『力』であつた。しかもそれは以前の自分には全くなかつたところのものであつた。
月光の夜に捉へた青い鳥は、日光の下には影も姿もなく消えうせて居た。そして子供は何にもない空を、いつしよけんめいで握つてゐた。子供は全く失望した。けれどもその時から、子供の心には一種の感覺が殘された。それは青い鳥をにぎつた瞬間の、力強いコブシの感覺である。
私の空虚の心に殘された唯一のものが、矢張それであつた。『握つた手の感覺』であつた。
この感覺の記憶が、私に一種の新らしい勇氣と力とをあたへるのである。
若しもあのサタンが、曾て一度でも天國に住んで居た經驗がなかつたならば、サタンはあれほどまで執拗にその野心についての確信と勇氣とを保持してゐることは出來ないであらう。
『握つた手の感覺』は今でも私に、新鮮な勇氣と希望とをあたへる。いつかは[#「いつかは」に傍点]自分も『幸福』を體感することが出來るにちがひない。いつかは[#「いつかは」に傍点]自分もほんとの『愛』を知ることができるにちがひない。そして必ずいつかは[#「いつかは」に傍点]『神』を信ずることが出來るにちがひない。(神を信ずることは人生の全目的であり、幸福の結論である)今では到底駄目だ。思ひもよらぬことではあるが私が死ぬまでには、いつかは[#「いつかは」に傍点]大丈夫であるといふ確信がある。それが私の『力』である。私はやつぱり空を握つたのではなかつた。
今では私は先生を『神』とは思つて居ない。併し私をキリストに導くところの預言者ヨハネのやうに考へて居る。先生は『光』そのものではないけれども『光』の實體を指し教へるところの先生[#「先生」に白丸傍点]である。
私のやうなひねくれた[#「ひねくれた」に傍点]そして近代科學や文明やのために疾患體にされた人間には、正直に『光』をみることは不可能である。私は今でもキリストを憎んでゐる。彼の教訓のまへに私はだだつ子[#「だだつ子」に白丸傍点]のやうな反感を抱いて居る。どんな立派な思想でも、どんな深酷な教訓でも、私を根本から救ふことは出來ない。然るに先生だけは私を憐んで救つて下さる、私の心に何かの種を落して下さる。私は私の心の中でその種を成長させることを樂しみにして居る。
幸福[#「幸福」に白丸傍点]の實體が愛[#「愛」に白丸傍点]であるといふ眞理を、私に教へて下さつたのも先生である。たとへ電光のやうな瞬間とはいへ、先生が私のすべて[#「すべて」に傍点]を抱擁して下さつたときの歡喜は口にも筆にも述べつくせないものがある。
先生は私のためには單なる思想上の先輩ではなくして、私の肉體の疾病にまで手をかけて下さるところの醫師である。人間の『良心』といふものは、單に思想上から生れた信念ではなくして、その人間の肉體から生れるところの一種の奇異な感情である。『良心』といふものは言葉をかへていへば、『神經』である。少なくとも私のやうな人間にとつてはさうである。『良心』は思想であり『神經』は感情であるといふやうに區別することから、驚くべき誤解が生れるのだ。先生はすべてのことを知りぬいてゐる。先生の前には人間は素裸で立たなければならない。ほんとに一人の人間を救ふためには[#「ほんとに一人の人間を救ふためには」に白丸傍点]、その人間の肉體から先に救はなければならないのだ[#「その人間の肉體から先に救はなければならないのだ」に白丸傍点]。思想なんてことは何うでもいいのだ[#「思想なんてことは何うでもいいのだ」に白丸傍点]。
何故ならば[#「何故ならば」に白丸傍点]、肉體を救ふことはその人間の[#「肉體を救ふことはその人間の」に白丸傍点]『神經[#「神經」に白丸傍点]』を救ふことであり[#「を救ふことであり」に白丸傍点]『良心[#「良心」に白丸傍点]』を救ふことであるから[#「を救ふことであるから」に白丸傍点]。
ああ、偉大なるドストヱフスキイ先生。
私はもうこの人のあとさへついて行けばいいのだ。さうすれば遲かれ早かれ、屹度私の行きつくところへ行くことができるのだ。私の青い鳥[#「青い鳥」に白丸傍点]を今度こそほんとに握ることができるのだ。
私はそれを信じて疑はない。だから私はどんなに苦しくてもがまん[#「がまん」に傍点]する。そして私はもつと苦しまなければならない。もつともつと自分の醜惡をむき出しにしなければならないのだ。
私の詩『笛』は前述のやうな事實のあつた少し後に出來たものである。これを書いたときには、何といふわけもなくブリキ製の玩具の笛のやうな鋭い細い音色を出す、一種の神經的に光つた物象が、そのときの私の感情をいたいたしく刺激したので、その氣分をそのまま正直に表現したので
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