は私のいぢらしい子供だ』どんなに私が烈しく椅子の上に泣き倒れたか、どんなに私が歡喜にふるへたか、それは此の記事をよむ人に推察してもらふより外にない。
私が始めて先生を知つたのは、今から二、三年以前のことである。あの恐しい小説『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『死人の家』等が、私にたまらないほど大きな慰安と感激と驚異とをあたへたことは言ふ迄もない。それらの書物には私のいちばん苦しいこと(私はそれを神經質的良心と名づけて居る)が、驚くべき程度にまで洞察され、そして同情されて居る。
だから私はずつと以前から、先生を世界第一の詩人だと思つて居た。併し先生が私の救世主として現はれてくるやうな奇蹟があるとは全く思ひがけなかつた。
一體、先生に限らず凡ての近代の西洋人は、私と共鳴する性格を多分にもつてゐる。(日本人の仲間には一人として私の友人を求めることは出來ない、彼等は私とは全然ちがつた肉體をもつてゐるやうな氣がする)。特に西洋人の中でも私は、アンドレーフ、ガルシン、メーテルリンク、ダンヌンチオ、アルチバセフ、ポー、※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルレーヌ、ソログープ、アレキセイ・トルストイ(大トルストイは私とは共鳴がない)かういふ人たちが好きである。かういふ人たちの作品は私に多くの『慰安』をあたへる。私が訴へようとして居ること、私が苦しんでゐること、私が捉まうとして居ること、さういふことを此の人たちは、私が自分で言ふよりはずつと鮮明にそして完全に言つてくれる。此の人たちは皆、私と同じ病院に住んで、私と同じ疾患の苦痛のために泣き叫んでゐる人たちである。
もちろん、私は大ドストヱフスキイ先生もかうした仲間の一人として發見した。併し先生にはどこかみんな[#「みんな」に傍点]とちがつたところがあるやうな氣がした。みんな[#「みんな」に傍点]はよくしやべり[#「しやべり」に傍点]そしてよく騷ぐ(苦痛のためであるとはいへ)。然るに先生だけはいつも默つて何かあるもの[#「あるもの」に傍点]を考へて居るやうに思はれた。それが先生を一種の得體の分らない怪物のやうにさへ思はせた。今にして思へば、その得體の分らないあるもの[#「あるもの」に傍点]こそ、實に先生の限り知られぬ愛であつたのだ。
先生はどうにかしてみんな[#「みんな」に傍点]を救つてやりたいと考へて居られたのだ。ここが先生のみんな[#「みんな」に傍点]とちがふところだつたのだ。
私の神經が、先生に接吻された感覺を起したのは、全く思ひがけない奇蹟的の出來事であつた。何故ならばその當時、私は久しい間、まるで先生の作物には手を觸れずに居たし、先生のことなんかも少しも考へては居なかつたからだ。
けれども此の事實の起つた少し前から、私は例の憂鬱に烈しくなやまされて居た。そして世界のどこかに自分を救つてくれる救世主のあることを夢想して居た。無理にもさう思はずには居られなかつたのだ。こんな工合であるから、私の信仰に入つた動機は、全く理智や思索をたどつた結果でなくして、いつもの詩作のときと同じやうに一種の靈感から感電したものにすぎない。だからこれは私自身にとつても不可解であつて、到底、言葉で説明することの出來ない問題である。
一言にしていへば、私の感情が私を信仰に導いたのであつた。ただそれだけである。
私はそのときから先生を『神』とよんだ。一切の苦惱や罪惡はすつかり償はれて、大きな平和が私の前途を祝福して居るやうに思はれた。
先生に祈りさへすれば、どんな奇蹟でも出來るやうな氣がした。それほど大きな力が湧いてきたのだ。この奇異な感覺は、そのときから三日ばかりもつづいた。この三日の間といふもの私は生れてから經驗のない絶大な幸福をかんじてゐた。
ところが一週間とたたないうちに、白熱した金屬が外氣にふれるやうに、だんだん私の精神状態が舊にかへつて行つた。『神』だと信じた先生が『偉大なる人間』に變つてきた。そして私の白熱した信仰體は、一種の偉人崇拜體に化してしまつた。それはもちろん赤熱したものであつたとはいへ。
私は急に見捨てられた人のやうな寂しさを感じはじめた。それは醉からさめた寂しさでもあつた。その當時、悦びで有頂天になつた自分の姿が、あさましくも馬鹿らしくも思はれた、『あれはやつぱり一種の病熱からみた幻影にすぎなかつたのぢやないか』『あれは何でもない錯覺の類ぢやないのか』『自分は喜劇を演じたのぢやなかつたか』かういふ疑問が私を皮肉的に嘲笑し始めた。私は二度、絶望と懷疑の暗い谷底へ投げこまれてしまつた。
その暗い谷底で、私は髮の毛を握つて齒をくひしめた。もうとても助からない、駄目だ、と言つた。私は正に觀念の眼をとぢようとした。けれども不思議なことには、すべてを投げすてた私の空
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