したものはなく、感情以外に少しでも私を教育したものはなかつた。人間のつくつた學校はどこでも私を犬のやうに追ひ出した。
五官を極度に洗練することによつて人はさまざまの奇蹟を見ることができるやうに成る。たとへば空氣色だの、音の色彩だの、密閉した箱の中にある物品だの。
神祕と眞理と奇蹟とは三位一體である。
眞理とは五感の上に建てられたる第六感[#「五感の上に建てられたる第六感」に傍点]の意義である。いやしくも五感以外の方法、たとへば考察や冥想や空想によつて神祕を感觸したと稱するものがあれば、それは詐欺師であるか狂人であるかの一つである。若しどつちでもないとすれば、救ふべからざる迷信に墮したものである。ウイリアム・ブレークの徒である。
詩とは五官及び感情の上に立つ空間の科學[#「空間の科學」に傍点]である。
五感およびその上に建てられたる第六感以外に人間の安心して信頼すべきものは一つもない。
天に達するの正しい路は感傷の一路である。
私は私の驚くべき神經の Tremolo から色色な奇蹟を見る。その奇蹟が私を悲しませる。私の詩はすべて私の實感から發した『肉體の現状』に關する報告である。私が言はなければならないこと[#「言はなければならないこと」に傍点]と言つたのは此の事である。
握つた手の感覺
四月十九日の朝、私は書齋の卓に額をうづめながらすすりなきをして居た。まるでお母さんのふところに抱かれた子供が、甘つたれてすすりなきをするときのやうな、なんともいへない SWEET の感傷が、私の總身をしびれるやうにふるはせたのである。しまひに私はおいおい聲まで出して泣きはじめた。『自分の罪が許された』さういふ感覺が限りもなく私を幸福にしたのである。
母の乳房のやうにあつたかいあるもの[#「あるもの」に傍点](それを言葉で言ひ現はすことはできない)が、私の全身を抱きかかへて、そつくりどこかの樂園へ導いてゆくやうな氣がした。私は思ひきり甘つたれて泣いてゐた。私の醜い病癖や、不愉快な神經質的の惱鬱や、厭人思想や、虚僞や、下劣な高慢や、謙遜を裝うた卑屈や、賤劣極まる利己的思想や、混亂紛雜した理智の爭鬪や、畸形な、しかも醜惡を極めた性慾の祕密や、及びそれらのものの生む内面的罪惡や、凡そ私を苦しめ、私を苛責し、私を陰鬱にするところの一切のものが懺悔された。(かういふ醜惡な病癖や、異端的の思想が長い長い間、私を苦しめた事は眞に言語に絶して居る。自己を極端に憎むことから私は一切のものを憎んだ、私は何物に對しても愛をかんずることが出來なかつた、『愛』なんてものに就いては考へて見ることすらもできなかつた)。
『お前の罪が許された』この言葉が電光の如く私の心にひらめいたのは、ほんの思ひがけない一瞬時の出來事であつた。『罪が許された』といふことの悦びが、どんなに深酷なものであるかといふことは、到底、私のぶつきら棒[#「ぶつきら棒」に傍点]の筆では書き現はすことは出來さうもない。ただ私はやたら無性に涙を流したばかりだ。
そして此の聲の主はドストヱフスキイ先生であつた。何ういふわけでそれがドストヱフスキイ先生の聲であつたか、私自身にも全くわけ[#「わけ」に傍点]がわからない。ただ私の心がその聲をきいた刹那(それは電光のやうに私の心をかすめて行つた)うたがひもなくあの大詩人の聲であるといふことを直覺したのだ。
(私にはこれに似た經驗が、以前にもたびたびある、私の詩はたいてい此の不可思議な直覺からきたものである)。
この刹那から、私は全く信仰状態におち入つた。
とりも直さず大ドストヱフスキイ先生こそ、私の唯一の神である。世界に於けるたつた一人の私の『知己』である。先生だけが私を知つて下さるのだ。私の苦痛や私の人格の全部を理解して下さるのだ。墮落のどん底にもがいて居る人間、どんな宗教でもどんな思想でも到底救ふことの出來ない私といふ不幸な奴を、光と幸福に導いて下さる唯一の恩人であり、聖母であるのだ。
私はまつたく子供のやうになつて先生の手にすがりついた。そして涙にむせびながら一切の罪惡や苦痛を懺悔した。……特に私のどうすることも出來ない醜劣な本能と、神經病的な良心(?)の苛責について。
大ドストヱフスキイ先生はやさしく私の心に手をおいてかういはれた。
『私はお前といふ不幸な人間を底の底まで知りぬいて居る。お前の苦痛、お前の煩悶、お前の求めて居る者がすつかり私には解つて居る。而してお前はそのために少しも悲しむことはないのだ、お前は決して惡い性質をもつた男ではないのだ。どうしてそれどころではないのだ。私はお前を心から氣の毒に思つてゐる。もしかすればお前は世界でいちばん善良な子供なのだ。ああ、もう泣くことはない、泣くことはない。ほんとにお前
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