事があらうか。犬の意志が人間に通じないと言ふことは驚くべき神の惡戲である。
而して、もちろん、詩人としての私は魔術にかかつた犬である。
動物が動物同士で會話するといふことは、驚くべきことである。
犬や、猫や、蛤や、鵞鳥の類が、人間に解らないある種の奇怪な言語、又は動作をもつて、全く人間の知らない未可見の事實を語りあつて居るといふことは、眞に驚くべきことである。
彼等は人間のもつて居ない特種の官能器官をもつて居る。そして人間の見ることの出來ない物象を見て居る。人間の聽くことの出來ない音をきいて居る。未來に生ずべき天變地異を感知して居る。そして彼等はつねにかういふ隱れたる世界の祕密について語りあつて居る。二疋以上の動物が長いあひだ向ひ合つて居るのを見るときに、私は奇怪な恐怖からまつ青[#「まつ青」に傍点]になつてふるへあがる。
どんな人間でも、彼等の言ふ言語の意味を考へる場合に戰慄せずには居られない筈である。
私はまた、種種な動物に對して或る特種な感覺と恐怖と好奇心とを持つて居る。それで『動物心理學』や『生物哲學』のやうな書物をいつしんに研究して見た。併しそれらの書物にはなんにも書いてなかつた。私はまつ白な紙と、人間の智識の淺薄なことにつくづく退屈してしまつた。
私は時として私の肉體の一部がしぜんに憔悴してくることを感ずる。そのとき手に觸れた物象は、みるみる針のやうに細くなり、絹糸のやうになり、しまひには肉眼で見ることもできないやうな纖毛になつてしまふ。そしてその纖毛の先から更に無數の生《うぶ》毛が光り出し、煙のやうにかすんで見える。
じつとそれをみつめて居るときに、私は胸のどん底から込みあげてくるところの、なんとも言ひやうのない恐ろしい哀傷をかんずる。
私は兩手にいつぱいの力をこめて、その光る纖毛の一本を根《こん》かぎりにつかまうとする。眼にもみえざる白い生毛に私の全神經をからみつける。そんなかすかな哀れなものに、私の總體の重力で心ゆくばかりすがりつきたいのである。
私の神經はむぐらもちのやうにだんだん[#「だんだん」に傍点]深く地面の下へもぐりこむ。不幸にして私の肢體の一部が地面の上に殘つて居るとき、不注意な園丁がきて、それを力まかせに張りとばすのである。無神經な男の眼には木の根つ株かなんかのやうに見えたのである。しかし私の張りさけるやうな苦痛の絶叫をたれ一人として聞いてくれたものは此の地上にない。
私はいつでも孤獨である。言語に絶えた恐ろしい悲哀を私一人でじつと噛みしめて居なければならない。生きながら墓場に埋められた人の絶望の聲を地上のだれがきくことが出來るか。
私が根かぎり精かぎり叫ぶ聲を、多くの人は空耳にしかきいてくれない。
私の頭の上を蹈みつけて此の國の賢明な人たちが斯う言つて居る。
『詩人の寢言だ』
此の國でいちばん眞實のある人間は詩人である。少なくとも彼等は自分の藝術を賣物にして飯を食はうなどとは夢にも思つて居ない。(實際に於てもそれは不可能だ)。
考へても見ろ、どんな種類の人間が、肉を削るやうな苦しい思をして一文にもならない勞作をして居るか。言ふだけのことを言ひ切らねば、私は干物になつても死にきれない。
自分の言ふ言葉の意味が、他人に解らないといふことはどんなに悲しいことであるか。自分の思想が他人に理解されないといふことは死刑以上の苦しみではないか。
私はまいにち苦行僧のやうな辛苦を嘗めつくして居るにもかかはらず、私のもつて居るリズムの百分の一も表現することが出來ない。
けれども萬一、私が『表現の祕訣』を握つたあかつきには、私は私の藝術を捨てることを躊躇しない。なんとなればそれ以上の藝術は、どんな人にとつても必要以上のぜいたくである。
私の詩の生命は、創作後一時間乃至一晝夜である。少なくともその時間だけは立派に光つて見える。併しあとになつて私はいつも騙された人の憤怒と慚愧と失望とを感ぜずには居られない。私は翌月の雜誌に印刷された自分の詩篇に對し、羞恥でまつかの顏をしながら取消しを申込むものである。
私は私の肉體と五官以外に何一つ得物をもたずに生れて來た。そのうへ私は書物といふものを馬鹿にして居る。そして何よりもきらひなことは『考へる』といふことである。(詩を作る人にとつていちばん[#「いちばん」に傍点]惡い病氣は考へる[#「考へる」に傍点]といふことである。中年の人はよく考へる[#「考へる」に傍点]。考へる[#「考へる」に傍点]といふことを覺えた時その人は詩を忘れてしまつたのである)。
そこで私の方針は、耳や、口や、鼻や、眼や、皮膚全體の上から眞理を感得することになつて居る。言はば私は生れたままの素つ裸で地上に立つた人間である。官能以外に少しでも私の信頼
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