ある。出來あがつたあとで讀んでみると『笛』一篇はちやうど當時の私の心もちを象徴して居るやうに思はれる。
『笛』そのものが『幸福』そのものの象徴になつて居るやうにも見られる。しかし私はそんな風な理詰で私の詩(その篇に限らず)を讀んだり理解したりしてもらひたくない。
私の詩を讀む人は『聖書』をよむやうな心持で、書いてある文字の通り正直に讀んでもらひたい。
私は自分の思想や哲學や概念を、少しも他人に知らせたいとは思つて居ない、またそんなものには自分でも更に價値を認めて居ない。
私はただ私の『感情』だけを信じて居る。『感情』そのものが私の生命である。それさへ完全に表現することが出來ればそれで私の目的は達したのである。
新人の祈祷
昔の人たちのことは知らない。
今の世に生きる私どもの祈祷する言葉はただひとつきりない。
「神よすべてを忘れしめたまへ」
もしも、忘れる[#「忘れる」に傍点]といふことがなかつたら、私どもはいちにちでも生きてはゐられないだらう。
人はだれしも、良心といふやつかいの荷物をしよひこんでゐる。
しかし、むかしの人は神を信じてゐた。道徳の權威をみとめてゐた。
さうして、私どもは、なんにも信じてゐない。
「道徳上の犯罪」といふやうな言葉を、私どもはすこしも恐れはしない。けれども私どものおそれるのは、神經的の良心である。人が人に對して不徳な行爲をしたり、下劣な感情をまじへたり、正義に背いたことを行つたり、破廉恥の所業をしたり、或はまた恥づべき邪淫の慾望を起したりしたあとに必ずやつてくる、あの足のない幽靈の出現である。
良心は私どもの生命をくひつめる。
それに責められるのはおそろしい。
新人の懺悔は、罪を悔ゆるのではなくして、罪を忘れたいといふ一念である。
祈るとき、わたしはいつもかういつて祈る。
「わたしの信じない神さま。すべての過去を忘れさせたまへ」
なつかしい微笑
私に言ひたくつてたまらないことがある。
しかし、どうしても言へないことがある。
それを言ふのはあまりにはづかしい。人はだれしも、その心の底にくらい祕密を包んでゐる。人はつめたい屍骸となつたときまで、しつかりとそれを胸に抱きしめて居なければならない。
私はあまりに臆病者でありすぎるかも知れない。けれども私はそれを恥としない。却つて私はかういふ意味での勇者をにくんでゐる。
よい人間とは、しをらしい小心の子供である。
自分の心だけでは思つても、人のまへでは言へないことがある。それを言はずにゐる心根がいぢらしいのだ。よい人間とは、どんな場合にも「おひと好し」でなければならない。自分自身に對して臆病な「おひと好し」でなければならない。
かりにもわが心に問うて「恥かしい」と思ふやうな醜いことを、人は決して言葉に出して言つてはならない。
しづかに太陽は空をめぐつてゐる。
悲しい野末の墓石が風にふかれてゐる。
そのつめたい石の下には、ほそながい人間のからだが、あふむけに寢てゐる。そのからだの上には重たい土がある。土の上には青い空がひるがへつてゐる。眠るひとは、墓の下で雙手を胸の上に組みあはせて眠る。
かうして時はすぎる。
かうして、さまざまの人の心の奧底にふかくかくされてゐたあらゆる祕密が、とこしへに闇から闇へと葬られる。
私はけふも野末の墓場をおとづれた。
さうして私は、けふもまたあの不思議な老人の姿をみた。
つめたい墓場の石の上に老人は坐つてゐた。
まいにち、同じところで、あの老人はなにをあんなに考へこんでゐるのだらう。
わたしは、あるとき思ひきつてそれをたづねてみた。
けれども老人はなにも答へなかつた。そしてただ、意味ありげのさびしい微笑をみせた。
そのとき空には白い雲がながれてゐた。
人間はだれしも美しいものではない。人間の心臟には動物の血がまじつてゐる。時として人間は、動物よりももつと[#「もつと」に傍点]醜い、もつと[#「もつと」に傍点]邪惡な、もつと背徳的な慾望や思想にふけり易いものである。しかし人は自分の力ではそれをどうにもすることは出來ない。それは是非もない、悲しい人間の本能であるから。
空には白い雲がながれてゐる。そして老人は何にも言はずに寂しい微笑をした。
ああ、なんといふさびしい微笑であらう。
もの悲しい秋の日の、つめたい墓石の上で。
ああ、なんといふなつかしい微笑であらう。
青ざめた良心
良心とはなに。
あの青ざめた顏をした良心といふものほど、近代の人間にとつて薄氣味のわるいものはない。
われわれの心に忍び足をするあいつ[#「あいつ」に傍点]の姿をみると、幽靈の出現のまへに起るやうな恐ろしさをかんずる。
むかし、道徳の權威が認められてゐたころには、良心は神の聲であつた。
しかし、今ではなにものの聲だらう。
およそ得體《
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