えたい》のわからないものほど恐ろしいものはない。人が幽靈を恐れるのは、そのものの正體がわからないからである。
ああ、良心とはなに。
あの人種の血脈に、一種の醜惡な人種病が遺傳されて居るやうに、思ふに『良心』とは、我我人類の先祖[#「先祖」に丸傍点]の腦神經系統を犯した一種の黴毒性疾患が、われわれ末代の子孫にまで執念ぶかく遺傳したものに外ならないのであらう。
われわれは、理性の上では、良心といふ迷信を輕辱しきつてゐる。それにもかかはらず、私どもの感情はそれをどうにもすることが出來ない。
神も、佛も、未來も、道徳も、人道も、私どもはこの世のなにものの權威をも信じてゐない。それにもかかはらず、ひとびとは何故にあの舊弊な迷信からのがれることはできないのか。
良心とはくさりかかつた腦黴毒性の疾患である。良心は人類の神經にするどい有毒の爪をたてた。
あまつさへ、良心は手に血だらけの細い鞭をもつた裁判官である。
不幸にして良心の命令に背いた罪人は、青ざめた懺悔體となつて鞭うたれなければならない。その罪のもつとも重いものは、曲つた樹木の枝にくび[#「くび」に傍点]をつるされたりする。
いまの世に、するどい良心をもつて生れた人ほど、いたましいものはない。
さういふ人たちは、いつでも、つめた貝に食はるる蛤のやはらかい肉身の痛みをかんじ、しのばなければならない。
わたしはわたしの自由意志を愛する。そしてあの青ざめた幽靈のまへには、熱病やみのやうにふるへをののいてゐる。いつも、いつも、わたしはさうである。
生えざる苗
『おれは、青い空の色がすきだ。
おれは、青い木の葉のにほひをかぐのがすきだ』
イワンがかう言つた。
イワンは肉慾主義者の血統をひいた『カラマゾフ兄弟』の一人である。彼は極端な無神論者で、恐ろしい懷疑家である。
イワンは何ものとも妥協することのできない近代思想の勇者である。彼は神を信じない。惡魔を信じない。天國も地獄も、道徳も人道も、博愛も正義も、科學も哲學も、およそ地上のいつさいのものを賤辱し盡してゐる。而してまつくらな焦熱地獄のどん底に絶望的の悶絶をつづけながら、しかも尚、新らしい救ひをもとめようとしてもがきあがいてゐる。
彼は苦しい聲を出して叫んだ。
『いつたい、おれのやうな人間はどうすればいいのだ』と。
ほんとにイワンはどうすることもできない人間である。
しかし
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