さくらはな咲けども終日いのりて出でず。
ときに私の心靈のうへを、血まみれになつた生物の尻尾が、かすめて行く。それだけをみとめる。しんに奇蹟とは一刹那の光である。

いよいよ微かになり、いよいよ細くなり、いよいよ鋭くなり、いよいよ哀しみふかくなりゆくものを、いまこそ私はしんじつ接吻する。指にふれ得ずして、指さきの纖毛に觸れうるものの感覺に、私の心靈は光をとぎ、私のせんちめんたるは錐のごとくなる。
ああ、しかし、いまは一本のかみ[#「かみ」に傍点]の毛にさへ、全身の重量をささへうることの出來るまでに、あはれな病人の身體は憔悴してしまつた。

私はいまそれを知らない。
何故にこの部屋の天井が、いちめんにねずみの巣となつたかを知らない。
ただ、私は私の左の手の食指から、絹糸のやうなものが、いつもたれさがつて居るのをいつしんふらんにみつめて居る。
いちにち、瓦斯すとほぶ[#「すとほぶ」に傍点]の火は青ざめて燃えあがり、密房の壁には、しだいしだいに怖ろしいものの形容を加へてくる。
今こそ、私は祈らねばならぬ。
齒をくひしめ、くちびるを紫にしていのらねばならぬ。

ああ、ねずみ巣をかけ。密房の家根裏はまつくらになつてしまつた。
私の病氣はますます青くなり。おとろへ。
海のあなたを夢みるやうに、うらうら櫻の花が咲きそめ。
[#地から5字上げ]―四月三日―


 言はなければならない事

 私は子供のときからよくかういふ事を考へるくせがある。自分が若しある何等かの重大なる神罰を蒙るとか、又は氣味の惡い魔術にかかるとかして……お伽話にあるやうに……私の肉體が人間以外の動物に變形した場合の生活はどうであるかと。
 たとへば私が人氣のない寂しい森を散歩して居る中に、突然 Fairy といふやうなものが現れて私といふ人間を一疋の犬に變形してしまふ。
 私は尻尾をひきずりながら主人の家、ではない私自身の家に歸つてくる、私はいきなり懷かしい母の姿を見つけてこの恐ろしい事件の顛末を訴へようと試みる。併し、母は一疋の見知らぬ犬としか私を認めてくれない。私がいろいろな仕方で、尻尾をふつたり、吠えたり、嘗めたりするにもかかはらず母には少しも犬の意志が通じない。そのうへ私が悲鳴をあげて泣き叫ぶにもかかはらず、種種な迫害を加へた上、私を庭の外へ追ひ出してしまふ。
 世の中にこんな取り返しのつかない悲慘な出來
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