す」これは「盧山雨声草庵中」といふ句のある白楽天の漢詩を日本風に訳したものだと言ふ。この方は翻訳でない。しかしながらこの歌には、芸術として独立した価値があり、且つ原詩の詩的ムードをずつとよく本質的に捉へてゐる。そこで外国語の詩に就いて、読者の真の知らうと欲するところは、詩の個々の原語や逐字訳的の詩想でなくして、原詩そのものが持つてる直接のポエヂイであり、原詩それ自体の詩的ムードなのである。それ故に詩は、むしろ翻案すべきものであつて翻訳すべきものではない。前に逆説して、翻訳は誤訳であるほど好いと言つたのはこの故である。

 訳詩の能事は、単に原詩の想念(思想)を伝へるに止まる。といふ制限を設けることから、翻訳の可能を説く人がある。しかし詩の思念といふものは、詩の言葉の包有してゐる連想や、イメーヂや、韻律やの中にふくまれ、化学的に分析できない有機体となつて生きてるのだから、原詩の文学的構成だけを訳したところで、詩の意味を伝へることは出来やしない。それを伝へる為には、原詩の個々の言葉を解きほごして、煩瑣な註解をつけ加へる外はなく、結局やはり、訳者自身の創作として翻案する以外に手段はないのだ。
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