つて構成させてゐる。「大鴉」からその音響を除いてしまへば、後に何も残るものはなく、無意味な文字の配列にしか過ぎないだらう。然るにどんな訳者が、それを日本語に移すことが出来るだらうか。詩の翻訳の不可能は、この一列によつても解るのである。

 私の昔作つた詩に、「鶏」と題する一篇がある。正直に白状すると、これはポオの翻案であつて、鶏の朝鳴を、とをてくうる[#「とをてくうる」に傍点]、もうるとう[#「もうるとう」に傍点]などの音韻で表象させ、全体にポオの「大鴉」と似たやうな詩想を、似たやうな表現技巧で出さうとした。そこで考へ得られることは、詩は「翻案」さるべきものであつて「翻訳」さるべきものではないといふことである。

「二月三月日遅々。東行西行雲悠々」といふ漢詩を、昔の或る人が和訳して「きさらぎ、やよひ、日のどか。とざま行きこざま行き、雲うらうら。」とした。これは確かに忠実な訳である。しかしこの和訳の詩には芸術としての価値がなく、且つ原詩のあたへる詩的感銘を、少しも表象的に伝へてゐない。所でまた、新古今集に次のやうな和歌がある。「昔思ふ草の庵《いほり》の夜《よる》の雨に涙なそへそ山ほととぎ
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