きである。訳者に、もしそれだけの資格がなく、原作者との比較に於て、問題にならないヘツポコ詩人であるとすれば、むしろ全然さうした翻訳を読まない方が利口である。なぜなら詩の翻訳は、翻訳者自身の創作であり、翻訳者の情想や、技巧や、スタイルやの、特殊な同化された血液を通してのみ、原詩の精神を透視することが出来るのだから。それ故にまた、訳された原詩の価値は[#「訳された原詩の価値は」に傍点]、常にその翻訳者の詩人的価値と一致してゐる[#「常にその翻訳者の詩人的価値と一致してゐる」に傍点]。翻訳者にして、もしヘツポコ詩人であるとすれば、原詩の価値もまた、低劣なヘツポコ詩に過ぎないのである。ボードレエルは、ポオを仏蘭西人に正価で売つた。しかしながら他の翻訳者等は、概ね原作者の価値を下落させ、捨値で売りつけてゐるのである。

 翻訳の不可能は、もつと広く、根本的の問題としては、必ずしも詩ばかりでなく、文学一般に関係し、さらに尚ほ本質的には、外国文化の移植そのことに関係して来る。一例として Real といふ言葉は、日本語では「現実」と訳されてゐる。したがつてまた Realism は、日本語で「現実主義」
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