てみな堀口君自身の詩であつて、どれを読んでも、一つの同じ堀口的スタイル、一つの同じ堀口的抒情詩の変化に過ぎない。つまり堀口の場合にあつては、すべての訳詩が翻訳であり、自分の創作になつてるからだ。そこで堀口君の訳詩を通して、ヱルレーヌを愛読し、ヱルレーヌに私淑してゐるといふ一青年が、かつて私に自作の詩を示して言つた。「ヱルレーヌの影響があると思ふのですが……」その詩を読み終つた後で私が答へた。「ヱルレーヌの影響なんか一つもない。みんな堀口君の詩の摸倣ばかりだ。」

 かつて日本の詩壇に、象徴派の詩人ヱルハーレンの流行した時代があつた。当時或る若い新進の詩人が、ヱルハーレンの影響を受けてると言ふので評判された。私がその詩を読んで驚いたことには、それが川路柳虹君の詩そつくり[#「そつくり」に傍点]の模倣であつた。そして当時川路君は、ヱルハーレンの詩を盛んに訳してゐたのである。――これほど滑稽な事実はなかつた。

 訳詩を読む人々への注意は、第一に先づその訳者が、詩人として、文学者として、原作者と同等以上、もしくは同等、もしくは最悪の場合に於てすら、雁行する程度の才能を持つてゐるか否かを見るべ
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