ろ彼は始めから、トロイ戦争の勇者になり、アキレスのように戦場で功名していた。そしてダンテも、ミルトンも、或は高蹈派のルコント・ド・リールも、すべての詩人がそうであった。彼等のあらゆる尊大なる、芸術的荘重感にもかかわらず、実には心の弱い詩人であり、神経質な感じ易い人物にすぎなかった。
されば詩に於けるクラシズムは、あまりに情熱的な詩人の血が、北極の氷結した吹雪の中で、意志の圧迫されることに痛快する、一種の逆説的詩学に外ならない。彼等のそこに求めるものは、ストア的律格の厳正さと、がっしり[#「がっしり」に傍点]した韻律の骨組と、そしてあらゆる意志的な抑制とから、すべての生《なま》ぬるい主観を圧し、センチメンタルな情緒を殺し、それの痛烈から逆に飛躍しようとする意欲である。かの近代に於ける新形式主義《ネオクラシズム》の立体派等も、思うにその精神をこの同じところに基調している。故に彼等の詩の中では、常に歪《ゆが》んだもの、残酷なもの、意地あしきものがいて、情緒への叛逆《はんぎゃく》的な牙《きば》をむいている。そして実に、あらゆるクラシカルな詩の「主観」が、この逆説なニヒリスティックの情熱に存するのだ。
故にこの種の詩は、主観を抑圧することによって、逆に却《かえ》って主観を飛躍させ、情緒を苛《いじ》めつけることによって、却って最も強いセンチメントを高調させる。そして実に、それ故にこそ「詩」が詩としての魅力をもつのだ。もし実に主観を圧し、情緒を殺してしまったならば、果してどこに詩の詩たる魅力があるのか。この場合には前のように、実の冷たい理智的な文学となり、精神なき形式美の造型物となる外はない。
フリドリヒ・ニイチェの哲学は、自国の独逸に於て悦《よろこ》ばれず、却って仏蘭西や伊太利《イタリー》の外国で迎えられた。あのあまりに独逸的な、権力感情的なニイチェが、何故に自国で読まれず、逆に南欧の外国で読まれたのだろうか。けだし独逸人は、ニイチェを理解すべく、彼自身があまりに実際の軍人であり、あまりに実際の権力主義者でありすぎたのだ。詳しく言えば、独逸人に取って悦ばれるのは、常にヘーゲルであり、デカルトであり、カントである。それらの哲学は、純粋に没情緒の概念で固めつけられ、がっしり[#「がっしり」に傍点]としており、組織的の方程式で成立している。そこには女性的な弱い心や、神経質なものや、ぐにゃぐにゃ[#「ぐにゃぐにゃ」に傍点]したメロディアスのものがなく、冷酷な理智的な頭脳によって、規律正しく組織的に分析された、概念のリズミカルな配列がある。そして独逸人が悦ぶのは、実にこの男性的な、がっしり[#「がっしり」に傍点]とした、真にクラシカルな哲学の美なのである。
こうした独逸人の趣味にとって、ニイチェの狂号する哲学は、あまりにヒステリカルで、神経質の女らしいものに感じられる。彼等がそれを軽蔑《けいべつ》し、不快な冷笑を以て迎えたのは当然である。しかしながら吾人は、かかる独逸人の趣味の中に、何等「詩」の理解がないことを確信する。なぜなら詩とは、独逸人の愛する如き純のクラシズムの美ではなくして、むしろかかる権力感へ飛翔《ひしょう》すべく、身構えられた主観の躍動にあるからだ。人はしばしば言う。独逸人の詩は科学であると。けだし独逸人の好むものは、科学に於ける組織的、分析的、規律的、軍隊的であるところの、あのリズミカルでがっしり[#「がっしり」に傍点]した形式にかかっているのだ。しかしそれが果して「詩」であるだろうか。もしそうであるならば、科学の中のクラシズムたる数学こそ、実に詩の中の詩であると言わねばならぬ。そして数学がもし詩の規範たるべきものならば、詩的精神の本質は理智であり、純粋に没情感のものでなければならぬ。
しかしながら吾人は、どんな懐疑思想の極に於ても、詩の本質をかかる没情感のものと考え得ない。数学的なる形式は、単に「純美」というべきものであって、決して詩の本質に属しないのだ。詩の詩たる本質は、所詮《しょせん》どんなクラシズムの形に於ても、主観に於ける感情の燃焼であり、生活的イデヤの痛切な訴えでなければならぬ。故に詩の本質は、常に必ず「生活のための芸術」であって、真の芸術至上主義には所属できない。真の芸術至上主義と言うべきものは、芸術に於ける科学者の態度を指している。即ちあの研究室の中に没頭して、一切の生活感や人間的情味を超越しているところの、真の学究|三昧《ざんまい》の態度を意味する。芸術家に於て、吾人はしばしばこの種の例を、或る種の画家や美術家――例えば北斎など――に発見する。彼等こそは真に芸術三昧であり、表現のための表現に献身している。しかし吾人の知っているどんな詩人も、決して芸術至上主義者であり得ない。なぜならば詩人は、芸術上に於てすらも、科学者たるべくあまりに人間的で、あまりに意志の弱い心を持っている。表現者であるよりも、彼等はより多く生活者でありたいのだ。そしてそれ故に、芸術至上主義者は詩人でなく、詩人にとっての「英雄《ヒーロー》」であるにすぎない。
要するに詩人は――どんな詩人であっても――所詮して主観的な感情家にすぎないのである。然《しか》り! あまりに詩人的でありすぎることからして、彼等は反動的に主観を抑え、情緒の虐殺を叫ぶのである。しかもそれを叫ぶことによって、逆にまた詩人的に興奮し、一層またセンチメンタルになってくる。故に詩に於ける主観派と客観派は、その表面上の相対にかかわらず、絶対の上位に於て、一の共通した主観を有し、共通したセンチメントを所有している。そしてこの本質上のセンチメントが無かったならば、実に「詩」というべき文学は無いのである。さればニイチェが歎《なげ》いたことは、彼がいかにして詩人であり、詩人を超越し得ないと言うことだった。だが彼がもし詩人でなく、実にヘーゲルの如き学者であり、ビスマルクのような軍人であり、そして真に鉄製の意志を持った独逸人であったならば、始めからどんなツアラトストラも無かったろう。実に詩は現在《ザイン》しないものへの憧憬であり、所有を欲する「自由への欲情」に外ならないから。
故に詩人は、彼が*気質的のセンチメンタリストであるほど、それほど逆に英雄的な叙事詩《エピック》の作家になり得るだろう。詩人が権力感情に高翔するのは、駱駝《らくだ》が獅子《しし》になろうとし、超人が没落によって始まるところの、人間悲劇の希臘《ギリシャ》的序曲である。あらゆる文明の源泉はこの叙事詩《エピック》から始まってくる。故に詩に於けるヒロイズムは、本質的に「悲痛なもの」を情操している。否むしろ、叙事詩《エピック》の真の魅惑は、その悲痛感によって尽きるのである。悲痛感を外にして、いかなる叙事詩の誘惑もありはしない。いかにゲーテのファウストやダンテの神曲やが、人間的弱小の非力感から、或る超人的なものへ飛ぼうとする悲痛な歎息を感じさせるか。そして支那《しな》の詩の多くのものが、沈痛無比な響を以て人生を慷慨《こうがい》悲憤していることぞ。そしてまたその故に、この種の詩ほど真の意味で情緒的で、感傷の深いものがどこにあろうか。
されば叙事詩は言わば「逆説された抒情詩」であり、詩に対する詩の反語に外ならない。丁度、科学が人生に於ける詩の反語であり、小説が文学に於ける詩の反語であるように、叙事詩は詩に於ける詩の反語である。換言すれば、それは主観に反動するところの、最も高調された主観的精神である。故に真の純一のもの、主観の中の純主観であり、詩の中での純詩と言うべきものは、ポオの名言したる如く抒情詩の外にない。(「実に詩というべきものは抒情詩の外になし。」ポオ)他はすべてその反語であり、逆説であるにすぎないのだ。
此処に至って詩の正統派は、遂に浪漫派に帰してしまう。なぜなら浪漫派は、始めから純主観の情緒主義によって立っていたから。のみならず浪漫派は、恋愛を以て中心的のものに考えていた。けだし恋愛の情緒は、あらゆる主観の中で最もセンチメンタルであり、最も甘美な陶酔感をもっているのに、その感傷や陶酔感こそ、抒情詩の抒情詩たる真の本質のものであるからだ。そこでもしポオの言葉を附説すれば、「実に抒情詩というべきものは恋愛詩の外になし」で、これを主張した浪漫派こそ、正しく詩派の中での正統主義であったのだ。
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* 抒情詩的《リリカル》な感情と叙事詩的《エピカル》な精神とが、全く同一線上のものに属することは、大概多くの詩人が、この両面の詩情を一人で兼ねている事で解る。例えばゲーテ、シルレル、バイロン、ハイネの如き、何れも情緒|纒綿《てんめん》たる恋愛詩の詩人であって、同時に一方でヒロイックな叙事詩を書いている。のみならず、ハイネやバイロン等の如きは、一方で恋をしながら一方で義人の如く戦っていた。ニイチェに至っては、その最も典型的な例であって、彼の妹にあてた書簡の如き、真の女性的愛情の優しさを尽している。故に公理を言えば、善き抒情詩《リリック》の作家のみが、善き叙事詩《エピック》を書き得るのである。
自殺した芥川龍之介は、純一なる小説家でかつ芸術至上主義者であったけれども、一方ではこれによって、ヒロイックな叙事詩を書こうと企てたのである。著者がかつて他の論文で、彼を「詩を欲情する小説家」と言ったのはこの為だ。
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第十二章 日本|詩歌《しいか》の特色
以上|吾人《ごじん》は、主として西洋の詩について叙述してきた。次に我々自身のもの、日本の詩について述べねばならぬ。もとより詩の原理するところは、東西古今を通じて一であり、時と場所による異別を考え得ないが、その特色について観察すれば、彼我《ひが》自《おのず》から異ったものがなければならぬ。そしてこの特色から、我々の詩は著るしく外国のものと異っている。実に地球の東と西とは、詩に於て見るほど著るしく、距離の隔絶を考えさせるものはないのだ。
第一に西洋と日本とは、詩の起元に於ける歴史からちがっている。既に前に述べたように、西洋の詩の歴史は、古代|希臘《ギリシャ》の叙事詩《エピック》から始まっている。然るに日本の詩の歴史は、古事記、日本書紀等に現われた抒情詩《リリック》から出ているのだ。しかも形式について見れば、西洋の詩は荘重典雅なクラシカルの押韻詩に始まっているのに、日本の上古に発生した詩は、すべて無韻素朴の自由詩である。左にその二三の例を示そう。
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少女《をとめ》の床のべに我がおきし剣《つるぎ》の太刀、その太刀はや。
大和《やまと》の高|佐士野《さしの》を七行く少女ども、誰おし巻かむ。
すずこりが醸《か》みし酒《みき》に我れ酔ひにけり、ことなぐし、ゑぐしに我れ酔ひにけり。
尾張にただに向へる一つ松、人にありせば衣《きぬ》きせましを、太刀はけましを。
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こうした自由詩に始まった日本の詩は、後に*支那との交通が開けてから、始めて万葉集に見る七五音の定形律(長歌及び短歌)の形式を取るに至った。しかもこの定形律は、韻文として極《きわ》めて大まか[#「大まか」に傍点]のものであって、一般外国の詩に見るような、煩瑣《はんさ》な詩学上の法則がない。外国、特に西洋の韻文は、一語一語に平仄《ひょうそく》し、シラブルの数を合せ、行毎に頭韻や脚韻やを踏むべく、全く形式的に規定されたものであるのに、日本の長歌や短歌やは、単なる七五音の反復をするのみで、殆《ほとん》ど自然のままの詠歎《えいたん》であり、何等形式と言うべきほどの形式でない。すくなくとも日本の定形律は、西洋の厳格な「韻文《バース》」に比して、極めて非形式的《アンチクラシック》な自由主義のものである。
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* 日本の詩に定形律が出来たのは、支那の詩にその規約があるのをみて、一種の文化意識から模倣したものだと言われている。自然のままで発展したら、原始の自由律で行ったのだろう。(清野博士の考証、土田|杏村《きょう
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