純粋に主観的のものであり、したがってまた感情的のものである。かの俳人が枯淡を尊ぶのは、趣味性の上の薫育であって、詩的精神の涸燥《こそう》を意味しないのは勿論である。詩的精神の情熱が枯れてしまったら、そもそもどこに俳句の表現があり得るか?
されば和歌と俳句とは、その外観の著るしい差別的対照にかかわらず、本質上に於て全く同じ抒情詩であることが解るだろう。即ち俳句は、和歌のより[#「より」に傍点]渋味づけられたもの、錆《さび》づけられたものであって、一種の枯淡趣味の抒情詩に外ならない。しかしながらこの趣味の相違が、一方にはまた俳句をして、和歌と大いに特色を異にするところの、日本的特殊な――あまりに日本的特殊な――文学としてしまっている。吾人は俳句の長所を認め、その世界的に特色しているユニックな詩境を認めるけれども、これによって新日本の文明と芸術とが、いつも伝統の中に彷徨《ほうこう》しており、世界的に進出し得ないのを悲しむのである。なぜならば日本人は、今日|尚《なお》この特殊な俳句詩境に、あまりに深く惑溺《わくでき》しすぎているからである。これについて吾人は、後に章を改めて別に論ずるところがあると思う。
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* 蕪村の詩に於けるイデヤは、あの春風馬堤曲に歌われている通りである。即ち「昔々しきりに思う慈母の愛」「春あり成長して浪葉にあり」の情愁で、時間の遠い彼岸《ひがん》にある、或る記憶に対するのすたるじや[#「のすたるじや」に傍点]、思慕《エロス》の川辺《かわべ》への追憶である。この思慕《エロス》は彼の俳句に一貫しているテーマであって、独得の人なつかしい俳味の中で、葱《ねぎ》の匂《にお》いのように融《と》け流れている。
現歌壇のアララギ一派は、子規によって始められた俳人の余技歌を亜流し、歌であって俳句の境地を行こうとしている。これ既に形式をはきちがえた邪道であるのに、日本自然派文壇の誤った美学を信奉して、一切詩的精神の本源を拒絶しようと考えている。真に蒙昧《もうまい》愚劣、憫殺《びんさつ》すべきの徒輩であるが、ただ彼等の中にあって一奇とすべきは、巨頭の斎藤茂吉である。彼は医者の有する職業的の残酷さと唯物観とで、自然を意地悪く歪《ゆが》んで見ている。けだし茂吉は国産品のキュービストで、一種の和臭ニヒリストである。
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第十一章 詩に於ける逆説精神
1
詩に於ける主観派と客観派の対立が、日本では和歌と俳句の関係になっている事は、前章で述べた通りである。次にこの章に於て、西洋の詩に於ける同じ対立の関係を、根本的に解決しようと思っている。けだしこの問題の解決は、詩論の最後に提出さるべき大問題で、詩の最も深い神経に触れるところの、真の根本的の結論である。
さて西洋の詩にあっては、内容を重んずる一派のものと、形式を重視する一派のものと、二つの系統に別れている。然るに詩の内容は主観に属し、形式は客観に属する故《ゆえ》に、此処《ここ》にまた日本と同じく、主観派と客観派とが対立する。そこで主観派に属するものは、浪漫派や象徴派の詩であって、客観派に属する一派は、古典派や高蹈派の類族である。前者は感情本位の自由主義で、後者は詩学本位の形式主義である。
この同じ対立は、一方また詩の情操からも考えられる。即ち前に他の章で述べたように、欧洲に於ける詩の歴史は、実に抒情詩《リリック》と叙事詩《エピック》との対立であり、詩情に於ける「情緒的《センチメンタル》なもの」と「権力感情的《ヒロイック》なもの」との、不断に交流する二部曲である。然るに情緒的なものは――浪漫派でも象徴派でも――必然に自由主義の精神に立脚するし、権力感情的な貴族主義のものは――古典派でも高蹈派でも――凡《すべ》て必ず形式主義に傾向している故に、欧洲の詩に於ける主観派と客観派との対立は、それ自ら抒情詩《リリック》と叙事詩《エピック》の対立に外ならない。(故に近代に於ける新形式主義《ネオクラシズム》の諸詩派――未来派、立体派、構成派――等も、言語の本質上の意味に於て、凡て客観派の叙事詩《エピック》に属する。これ等の詩は実に近代的叙事詩《モダーンエピック》とも言うべきだろう。)以下|吾人《ごじん》は、この詩に於ける主観派と客観派、即ち抒情詩と叙事詩の関係を、その内容と形式との二面にわたって、根本から論じ尽そうと思っている。しかしその前に、西洋に於けるこの主観派と客観派の対立が、前章述べた日本の詩のそれと別であり、関係の違っている事を言わねばならぬ。
日本に於ける主観派と客観派の対立は、和歌と俳句の対立である。故にこの場合の関係では、和歌が抒情詩《リリック》に相当し、俳句が叙事詩《エピック》になるわけである。しかしこの比較は根本的に間違えている。なぜなら和歌はとにかくとして、俳句は決して叙事詩《エピック》でないからだ。日本の俳句は、内容から見ても形式から見ても、西洋の叙事詩《エピック》とは少しも似たところがない。実に日本に於ける特殊の事情は、すべての文学が悉《ことごと》く内容本位の自由主義で、一も西洋に於ける如き真の意味のクラシックがないと言うことである。したがって日本には、言葉の厳重な意味で言われる「韻文」がなく、そうした形式主義の文学が発達しない。第一その種の文学に内容さるべき、叙事詩的《エピカル》な精神それ自体が無いのである。だがこの議事は他章に譲り、進んで本題に入って行こう。
2
芸術に於て、内容は主観に属し、形式は客観に属する。故に客観をどこまでも進めて行けば、最後に純粋の形式主義、即ちクラシズムに達してしまう。実にクラシズムの精神は、芸術の達し得べき最も寒冷の北極である。そこでは主観に属する一切の温熱感が、内容と共に逐《お》い出される。そして純粋に形式美であるところの、氷結した理智だけが結晶する。即ちクラシズムの方程式は、均斉、対比、平衡、調和の数学的比例であって、この冷酷なる没人情の氷山では、どんな人間的なる血液も凍ってしまう。そこには理智と数学で固まっている、氷づけの結晶した「純美」があり、大理石によって刻まれた造型美術が、立体結晶《キュービカル》の冷酷さで屹立《きつりつ》している。
実にクラシズムの芸術は、美を数学によって創造し、機械とコンパスと定規とから、人間模型を製造しようと意図するところの、真の残忍酷薄なる純美主義の芸術である。そこには少しも温熱感のある主観がなく、純一に客観的なる知性の形式美があるのみである。しかもかかるクラシズムが、何故に詩の表現と結婚するのか。実に吾人の不可思議に堪えないことは、クラシズムの如き芸術の北極圏に属するものが、反対に芸術の南極極地であり、主観の情熱を本位とする詩の如き文学と、何故に結婚すべく必然されるかと言うことである。そもそもこうした寒烈の気温の中で、我々のあまりに情熱的な――あまりに人間的温熱感のありすぎる――詩人の血が、どうして凍死せずに歌いつづけていられるのだろうか?
だが再度考えてみよう。上述したような真の意味の形式主義《クラシズム》――それは数理的な形式美のみを重視して、内容的なるすべてのものを、芸術から拒絶しようとする。――が、果して詩の世界にあるだろうか。もし有ったにしても、かかる種類の文学が、詩としての正しい評価を持ち得るだろうか。実際吾人は、或る種の末期的な詩派に於て、この種の形式韻文を見出《みいだ》している。例えば高蹈派《パルナシアン》の去勢された末期詩人は、彼等の詩派からその懐古的ロマンチックや、厭人《えんじん》病的の厭世感や――それが実に高蹈派の「詩」なのである――を紛失させて、ひとえにその韻律の詩工的完美に走り、詩を造型美術のように建築しようと考えた、換言すれば、彼等は詩を「心情《ハート》」から生むのでなく、知的な「頭脳《ヘッド》」によって製造しようとしたのである。
かかる種類の文学を、実に詩と言うことができるだろうか。確かに或《あるい》は、それは一種の美であり得るだろう。だがすくなくとも詩ではない。なぜなら「美」なるものの一切が、悉く皆「詩」ではないから。詩は純美というべきものでなくして、より人間的温熱感のある主観を、本質に於て持つべきものだ。すくなくとも吾人は、確信を以て一つのことを断定できる。即ち詩は心情《ハート》から生るべきものであって、機智や趣味だけで意匠される頭脳《ヘッド》のものに属しないと言うことである。故に、詩に於ける形式主義《クラシズム》は、内容として詩的精神、即ち「主観」を持つ限りに於て許さるべきで、主観なき純粋の形式主義は、一種の数学的純美であるとしても、断じて詩と称し得べきものでない。
では何故に詩人の主観が、かかる知的なクラシズムを、表現に於て選ぶのだろうか。詩が感情の文学であり、主観の南極に於ける芸術でありながら、クラシズムの如き北極的寒烈の形式を選定し、この矛盾した内容と形式とが結婚するのは、いかにしても不可思議なことに思われる。しかしながらこの疑問は、前に他章(形式主義と自由主義)で概略を解説した。即ち詩に於ける形式主義は、本来|叙事詩的《エピカル》の精神とのみ結合する。そしてこの叙事詩的《エピカル》の精神は、彼の貴族的なる権力感情の発翔《はっしょう》から、形式に於てどっしり[#「どっしり」に傍点]したもの、荘重典雅のもの、ストア的に厳格のもの、韻律の規則正しく、骨組のがっしり[#「がっしり」に傍点]したものを欲求することからして、必然にこの結婚が生れるのである。けれども尚《なお》疑問なのは、かかるヒロイックな権力表現を求める詩人が、果して真に生れたる英雄であり、ビスマルク的鉄血心を持っているところの、真の独逸《ドイツ》軍人であるか否かと言うことである。
この疑問に対しては、吾人は明らかに「否!」と答える。古来幾千の詩人の中、果して真に英雄的だった人物がどこに居るか。彼等の或るものは、時に或は勇士の如く、英雄の如くにふるまっている。しかもこれ外見のドラマにすぎない。真実のところを言えば、あらゆる詩人は女性的で、神経質で、物に感じ易《やす》い、繊弱な心をもったセンチメンタリストにすぎないのだ。(でなければどうして詩が作れよう。)一つの決定的な事実を言えば、詩に於ける一切のヒロイズムは、畢竟《ひっきょう》して「逆説的のもの」にすぎないということである。換言すればあらゆる詩人は、英雄的なものへの憧憬《どうけい》から、オデッセイやイリアッドの勇ましい、権力感の高翔した詩を作るのである。そして彼が「憧憬する」ところのものは、実には彼自身に属していないもの、所有していないものである。
そもそも詩の本質感は何だろうか。詩は「現在《ザイン》しないもの」への欲情である。現にあるところのもの、所有されているところのものは、常に没情感で退屈なものにすぎない。詩を思う人の心は、常に現在《ザイン》しないものへ向って、熱情の渇《かわ》いた手を伸ばしている。そして実に多くの詩人は、彼自身の存在に鬱屈《うっくつ》しており、自己に対して憎悪《ぞうお》と嫌忌《けんき》とを感じているのだ。おそらく彼等は、世界に於ける愚劣なものを、自己の詩人的な性格について自覚している。そして反動から、より頑強《がんきょう》な心を持った、神経の太々《ふてぶて》しい、大胆無法な勇気をもった、真の英雄的なものに憧憬している。
故に詩に於ける権力感は、常に非所有のもの、自由の得られないものに対する、弱者の人間的な羽ばたきである。換言すれば、詩人は詩を作ることによって、表現からの権力[#「表現からの権力」に傍点]を得、貴族を現実しようとする。実にホーマーについて知られることは、彼がイリアッドを書いている時に、あの見すぼらしい放浪詩人が、実にトロイ戦争の勇士であり、アキレスであったと言う事である。だが反対にもし、ホーマーが実の英雄であったならば、おそらく彼は、そうした詩など書こうともしなかったろう。寧《むし》
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