派と詩人に対し、一つの根本的なる懐疑を持っている。すくなくとも彼等については、何かの警告するところが無ければならない。だがその議論は次章に譲ろう。
 要するに最近詩壇は、前代象徴派への反動であり、リリカルな詩情に対する、エピカルな詩情の全躍している時代であって、これを社会的に観照すれば、デモクラチックのものに対する、権力感情のニヒリスティックな反動である。(前に言った唯美派や芸術至上主義の興る理由が、また実に此処《ここ》にあるのだ。)しかしこの現状の内奥には、早くもまた時代を逆に呼ばわろうとする、次の反動が準備され、漸《ようや》く詩壇の意識に登りかけている。即ち近時の外国詩壇で論じられている正統派――それは詩を純一の情緒に返そうとしている――の如き、その他浪漫派の正流を追おうとする一派の如き、何《いず》れも来《きた》るべき次の詩壇への、意味深い予言と暗示をあたえている。畢竟《ひっきょう》、詩の歴史は「反動から反動へ」の流れであり、無限に際限のない軌道である故、今日の正流は明日の逆流、明日の逆流は今日の正流となるわけで、この点の価値と正邪に関しては、一も現在の批判を断定し得ないのである。
 さて以上述べたことは、欧洲の詩壇についての観察だが、最後に日本の詩派について一言したい。なぜなら日本に於ても、象徴派とか高蹈派とか、或は未来派とかダダイズムとか言う如き、欧洲のそれと同名のものがあるからだ。これ等の和製詩派について、吾人は多く語るべき興味を持たない。日本に於ける大抵の文学流派は、皮相なジャーナリズムの影響であり、西洋新聞の文芸欄や政治欄を、新人気取りの新しがりと衒学《げんがく》さで、軽薄に受け取ったものにすぎないのだ。故に吾人の言うべきことは、日本に於ける象徴派や高蹈派等のものが、単にその名目上での一致の外、西洋の原物とは関係のない、或る特殊の別種であると言うことだけを、はっきり[#「はっきり」に傍点]と注意しておくに止める。

[#ここから3字下げ]
* 自由詩の起元は、欧洲に於ては象徴派である。しかしアメリカに於ては、これより先民衆詩人のホイットマンが、独自のユニックな散文詩形を創造している。けだしアメリカの如きデモクラシイの代表的国家に於て、早く自由律の詩が生れるのは当然である。
** 詩が美術に近く様式するのは、もちろん単に外観上の見えにすぎない。本質に於ては、やはり象形によって音楽のように情象するので、決して小説の如く描写しているのではない。しかし何れにせよこの行き方は、言語の特質を生かすべき、正道の表現にはずれている。
[#ここで字下げ終わり]


     第十章 詩に於ける主観派と客観派


        1

 以上、本書の各章を通じて論証し来《きた》ったように、詩の本質は「主観」であり、実に主観以外の何物でもない。詩とはこの主観的なる精神が、主観的なる態度によって言語に表現されたものを言うのである。然るに此処《ここ》に考うべきは、詩それ自体の世界に於て、また特に主観派と言うべきものと、客観派と言うべきものとが、互に対立するという事実である。そもそもこの矛盾はどう釈《と》くべきか。
 この書の最後に残されたる、真の根本的なる重大問題はこれである。
 既に早く、本書のずっと前の章で説いたように、あらゆる表現の形式には、それぞれの種目に於て――音楽にも、美術にも、小説にも――主観派と客観派との対立がある。故《ゆえ》に本来主観的なる詩の中にも、それ自身の部門に於て、同じような二派の対立がなければならぬ。今この事実を、日本と西洋との詩に就いて、両方から並行的に調べてみよう。先《ま》ず日本に就いて言えば、我々の代表的な二つの国詩、即ち和歌と俳句に於て、前者は主観派に属しており、後者は客観派に属している。また西洋の近代詩では、一般にだれも感ずる通り、浪漫派や象徴派等のものは、著るしく主観派を典型しており、高蹈派や古典派等のものは、反対の客観派に属している。
 そこで第一に問題なのは、詩に於ける客観派とは何ぞやと言うことである。多くの通俗の見解は、この差別を詩材の対象に置いて考えている。即ち例えば、俳句は主として自然の風物を詠ずる故に客観的で、和歌は恋愛等を歌う故に主観的だと言うのである。かの仏蘭西《フランス》の高蹈派が、自ら客観主義を標榜《ひょうぼう》して、主観の排斥を唱えたのも同じような通俗の見解にもとづくのである。即ち彼等は、一切「私」という語の使用を禁じ、詩を自己について物語らず、外界の自然に於ける風物や、歴史上の伝説について書くことを主張した。
 こうした通俗の見解が、極《きわ》めて無意味な皮相のものにすぎないことは、前既に他の章で弁証した通りである。芸術に於ける題材は、それが外界の「物」にあろうと、或《あるい》は内界の「心」にあろうと、さらに本質上に於て異なるところは少しもない。なぜならば表現の根本は、作者の物を見る態度に存して、対象それ自体の性質に存しないから。吾人《ごじん》が「主観的」と呼んでいるのは、もとよりかかる皮相の見解でなく、作者の物を見る態度の上で認識が感情の中に融化しており、気分的な情趣となっている態度を言うのだ。故にこの意味で言うならば一切の詩は皆主観的であるべきで、客観主義の詩というものは考えられない。
 然るにそれにもかかわらず、浪漫派の詩と高蹈派の詩、また和歌と俳句との間には、どこか或る根本的な点に於て、著るしくちがうところがあるように思われる。単なる皮相の俗解でなく、もっと内奥的な意味に於て、やはり前者は主観的で、後者は客観的であるという感じが、どこかに避けがたくつきまとっている。吾人は進んで、この二派の詩に於ける特殊な異別を、対照上に考えなければならない。しかしながら西洋の詩については、前にも既に説明したし、またこの次の章に於ても、一層根本的に説くところがあるからして、此処では特に、日本の国詩たる和歌と俳句についてのみ、この問題の考察を進めてみよう。

        2

 和歌と俳句とは、日本の詩に於ける二つの代表的な形式であり、かつ最も著るしいコントラストである。すべての詩を愛する日本人は、この二つの詩に於ける特殊のものを、対照のコントラストに於て知っているだろう。実に和歌と俳句の相違は、詩に於けるディオニソスとアポロの対照である。即ち和歌の詩情は感傷的、感激的で、或るパッショネートな、情火の燃えあがっているものを感じさせる。これに反して俳句は、静かに落着いて物を凝視し、自然の底にある何物かを探《さぐ》ろうとする如き、智慧《ちえ》深い観照の眼をもっている。また和歌のあたえる陶酔は、情緒的でメロディアスのものであるのに、俳句の魅惑はこれとちがって、もっと枯淡的に澄み入っている、含蓄の深い情趣である。
 されば和歌と俳句の相違は、詩に於ける音楽と美術の対照であり、また浪漫派と写実派の対照である。前者はロマンチックで感傷的に行こうとし、後者はレアリスチックで静観的に行こうとする。しかも吾人《ごじん》の知っている限り、俳句の如く観照的で、俳句の如くレアリスチックの詩は、世界に殆《ほとん》ど比類がない。西洋の詩や支那《しな》の詩やは、どんな静観的のものであっても、俳句に比すればずっと遙《はる》かに主観的で、作者の人生観や哲学やを、強く情熱的な調子で歌い出している。小説に於ける日本の自然派が、世界無比にレアリスチックの文学である如く、日本の俳句もまた、世界無比にレアリスチックの韻文である。そこには殆ど、強い調子の情熱と言うものが、全く語られていないようにさえ思われる。
 故に他との比較に於て、俳句が客観的であることは明白であり、またこの点から修辞して、俳句を「客観主義の詩」と呼ぶこともできるだろう。しかしこの場合に考えられる客観主義とは、詩という文学の立場に於ける、本質を具備しての客観である。即ち詳説すれば、俳句の本質は和歌と同じく、純一に主観的のものでありながら、その詩情に於ける色合や気分やが、特殊の静観的なものを有するために、この点の特色からみて、仮りに客観的と呼ぶのである。故《ゆえ》に俳句の観照は、常に必ず主観の感情によって事物を見、対象について対象を眺《なが》めていない。換言すれば、俳句の表現は「情象」であって、実の客観の「描写」でない。
 この点について、世には俳句を誤解している人がある。即ち或る人々は、俳句を以て単に象徴主義の徹底した表現と解しており、自然《レアール》に於ける真実の像《すがた》を捉《とら》え、物如の智慧深い描写をすることで、表現の本意が尽きると考えている。もし俳句と称する文学が、実にかくの如きものであるならば、俳句は描写本位の文学である故に、小説等と同じ種目に属する芸術品で、断じて詩と言うべきものではないのだ。しかし吾人の見ている限り、古来のいかなる真の俳句も、悉《ことごと》く皆情象であり、単なる描写本位の句というものは決してない。多くの一般の俳句は、自然の風物に託して主観の情調や気分を詠じているので、純に観照のために観照をしている如き、没情感の冷たい俳句と言うものは見たことがない。例えば蕪村《ぶそん》の
[#天から2字下げ]春の海|終日《ひねもす》のたりのたりかな
 という句の如きも、単にかかる自然を描写しているのでなく、主観に於ける春日長閑《しゅんじつちょうかん》の無為の気分を、対象の中に情調として見ているのである。他のあらゆるすべての俳句が、皆これに同じである。芭蕉《ばしょう》の句
[#天から2字下げ]草の葉をすべるより飛ぶ螢《ほたる》かな
 の如きも、或る種の小説家等が解する如く、単なる写実主義の描写でなくして、背景に於ける夏の夜の気分を情象しているのである。これらの俳句からして、単にその描写的手法のみを見る人は、実に「俳句」を読んで「詩」を理解しない人と言わねばならぬ。この俳句に於ける「詩」の本質を、その道の術語で「俳味」と呼んでいる。俳味は一種の黙約された詩趣であって、この詩的精神の本質なしには、決して俳句は成立しない。蓋《けだ》し俳句が、その写実的なる描写手法にもかかわらず、本質上に於て詩の精神を失わないのは、実にこの俳味と称する霊魂が、本質に於てあるためである。故に真の俳句は、性格的に俳味を有する人でなければ、決して作ることができないわけである。(近来の新傾向の俳句の中には、俳味を否定するものがあるけれども、この場合にはそれに代るべき、別の詩的精神が入れ換えにならねばならぬ。)
 かく俳句の表現は、対象のために対象を見るのでなく、主観に於ける俳味、即ち詩情によって対象を見、風物を情象するのであるから、本質に於て主観的表現であることは勿論《もちろん》だが、就中《なかんずく》真の詩的精神を有する俳句に於ては、一層その主観が強く高調的に表出されている。例えば芭蕉や*蕪村の俳句にあっては、俳味がそれ自ら生活感の訴えるイデヤとなっている。故に彼等の情象する世界を透して、吾人は或る霊魂の欲情している、情熱の高い抒情詩《じょじょうし》を聴《き》くことができるのである。これに反して精神のない低劣の俳句は、詩情が機智的の趣味性に止まっているため、観照に於ける描写的手法のみが感じられ、真の強い詩的情熱を感じさせることがない。俳句が「感情の意味」で読まれずして、機智的なる「知性の意味」で読まれるのは、かかる低劣なる作品のためである。真の精神を有する俳句は、知性の頭脳《ヘッド》に響かないで、直ちに心情《ハート》に触れて来ねばならない筈《はず》だ。
 故に芭蕉や蕪村やの、真の精神を有する俳句は、常に文字通りの「抒情詩」として感じられる。そこには常に、何かの訴えているものがあり、哀切しているものがあり、欲情しているものがいる。そしてこの一つのものこそ、彼等の生活に於けるイデヤであり、真の意味の「主観」である。されば俳句を客観的という意味は、全く詩趣の特色についてのみ見た意味であり、本質上には何等関しないことである。本質上には、俳句も他の一般の詩と同じく、
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