説的なる、寓意《ぐうい》的なる、一の「憎々しきもの」として、それの歪像《わいぞう》を映すのが普通である。後の章に説く近代の立体派や、表現派の詩が、その同じ精神の系統に属している。だがこの解説は後に譲り、こうした詩的情操の投影さるべき、表現の形式について考えよう。
感情の南方地帯に属するもの、即ち所謂「情緒」は、それ自ら愛《ラブ》の本有感である故《ゆえ》に、博愛や人道やの、すべての柔和なる道徳情操を基調している。この感情の本質は涙ぐましく、甘くスイートな気分に充ちてヴァイオリンのようにメロディアスのものである。故にその発想の形式は、必然に柔軟可動体なる、メロディアスの自由主義を欲求する。これに反して一方のもの、即ち意志的なる「権力感情」は、すべてに於て力のある、骨組みのがっしり[#「がっしり」に傍点]とした、拍節の正しいリズミカルの美を求める。そしてこの精神から、古代の芸術に見るクラシズムが発生したのである。此処《ここ》でクラシズムについて一言しよう。
クラシズムとロマンチシズムとは、実に芸術における北極と南極で、世界の終る両端である。浪漫主義の本有感は、愛のメロディアスな情緒感で、柔軟可動の自由を愛し、内容を本位とするものであるのに、クラシズムは情緒を排し、感傷的気分を嫌《きら》い、そして均斉、対比、平衡、調和等の、数学的法則による形式を重要視する。クラシズムの表現が欲するものは、何よりも骨骼のがっしり[#「がっしり」に傍点]した、重量と安定のある、数学的|頑固《がんこ》を持った、言わば「物に動ぜぬ直立不動の精神」である。それは一切の弱々しいもの、柔軟のもの、骨組みのぐにゃぐにゃ[#「ぐにゃぐにゃ」に傍点]したもの、女らしく繊弱なものを跳《は》ね飛ばすところの、男性的ストアの美を要求する。故にクラシズムの精神は、正に「独逸《ドイツ》軍隊の行進」である。どっしり[#「どっしり」に傍点]として大地を蹈みつけ、歩調に力があり、数学的正確の規律を以て、真にリズミカルに堂々と行軍する。(近代の諸国に於ける所謂「軍隊精神」なるものはすべて独逸国の創造になる。それはクラシズムと、科学的精神とを、帝国主義に於てビスマルクが芸術化した。)
こうしたクラシズムの精神は、正に権力感情の表象であり、すべてに於て貴族的な尊大感を誇示している。即ち本質的に形式主義で、勿体《もったい》ぶった威権を重んじ、そして何よりも「荘重典雅」の美を重視する。故にクラシズムの芸術は、すべて歴史の上古から中世にかけて栄えた。その歴史の時代に於ては、君主が専制的に国家を支配し、或《あるい》は貴族が政権を独占し、武士が封建の社会を形成していた。そして多くの芸術品は、君主や貴族の栄誉のために、その権力感の悦《よろこ》びを充たすべく製作された。然るに近代の平民的な社会に至って、この種の芸術は根本的に廃《すた》ってしまった。近代の新しき趣味性は、かかるクラシズムの美を悦ぶべく、あまりにデモクラチックな自由主義に傾向している。
此処に於て吾人は、先に前の章で暗示しておいた一つの宿題、即ち近代に於ける古典韻文の凋落《ちょうらく》を、真の原因について知ることができるのである。あの上古から中世の終にかけて、巨獣のように横行していた古典の叙事詩や劇詩の類は、何故に近代の初頭に於て、一時に消滅したのであろうか。けだしその真因は、近代に於ける資本主義文明の発達にある。実に十八世紀以来に於て、急激な進歩をした欧洲資本主義の文明は、一躍して平民の社会を造り、過去のあらゆる貴族的なものを葬ってしまったのである。社会はデモクラチックになり、自由主義になり、そして時代思潮の傾向は、常に到る処に平和主義や、人道主義や、博愛主義や、社会主義やの、所謂文化的|女性化主義《フェミニズム》へ潮流している。さればかかる社会に於て、古典韻文の如き形式主義の文学が、流行の外に廃棄されるのは当然である、特に就中《なかんずく》、叙事詩の如き貴族趣味に属するものは、時代の来る先鋒《せんぽう》に於て死刑にされる。
近代文学の黎明《れいめい》は、実に浪漫派の情緒主義《センチメンタリズム》によって開かれている。それは資本主義の平民文化が精神する、あらゆる反貴族的、反武士道的なものを表象している。換言すれば浪漫派は、クラシズムの形式主義に反感する、一切の自由主義的精神を代表している。すなわち彼等の新しい詩は、何よりも先《ま》ず情緒を重んじ、恋愛を讃美《さんび》し、そして形式上には、古典詩学の窮屈な拍節本位に反対して、より自由でメロディアスな、内容本位のスイートな音律を創見した。何よりも彼等は威権ぶったもの、四角張ったもの、形式ぶった窮屈のものを嫌った。そして浪漫派の精神が流れるところは、遂に象徴派を経て詩の形式を全く破壊し、一切のリズミカルな音律に反感して、純粋にメロディアスな自由律の詩、即ち今日の所謂「自由詩」を生むに至ったのである。自由詩は実に資本主義の産物で、平民文化のデモクラシーを代表している。
しかしながら前言う通り、人間に於ける叙事詩《エピック》の精神と抒情詩《リリック》の精神とは、常に何等かの形に於て、永久に対立すべきものである。この点では、いかに近代の文明が女性化主義《フェミニズム》に潮流しても、人心の底にひそむ不易の本能を殺し得ない。彼等は何等かの形に於て、人の気附かない意想外の変装をし、手に爆弾をかくして「反動」の窓に覗《のぞ》いている。そして他の多くのものは、より[#「より」に傍点]露骨に正面から時代への逆流的形式を取るであろう。
これによって前言う如く、今日でも尚《なお》自由詩と定律詩とは、欧洲に於ける詩界を二分しているのである。即ち平民的な情操を有する詩人は、多く皆自由詩に行き、貴族的な権力感を有する詩人は、概して皆定律詩に拠っている。けだし貴族的な精神は、本質的にクラシズムで、骨骼のがっしり[#「がっしり」に傍点]した美を求めるからだ。彼等の趣味に取ってみれば、自由詩は軟体動物のようなもので、どこにもしっかり[#「しっかり」に傍点]した骨組みがなく、柔軟でぐにゃぐにゃ[#「ぐにゃぐにゃ」に傍点]しているところの、一の醜劣な蠕虫《ぜんちゅう》類にすぎないだろう。反対に一方の眼でみれば、定律詩は形式的で生気がなく、時代の流動感を欠いているように思われる。
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* 「権力感情」という言語を、始めて強いアクセントで語ったものは、実に独逸の貴族主義者ニイチェである。ついでながら言っておくが、虚無主義の本質は、「権力を否定する権力感情」で、言わば「貴族を殺そうとする貴族主義」である。逆にニヒリズムは近代の逆説された叙事詩思想《エピカルソート》で、著者の所謂「変装した陰謀者」「歪みたる憎々しきもの」の一つである。
独逸音楽と南欧音楽の特色は、エピカルとリリカルとの、最も典型的な好対照である。独逸音楽の特色は、すべてに於てリズミカルで、拍節が強くはっきり[#「はっきり」に傍点]とし、軍隊の重圧的な歩調のように、重苦しくどっしり[#「どっしり」に傍点]している。反対に仏蘭西や伊太利《イタリー》の音楽は、メロディアスの美しい旋律に充ち、柔軟自由にして変化に富んでいる。前者は正しく定律詩の音律美で、後者は自由詩の音律美である。
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第八章 浪漫派から高蹈派へ
感情に於ける二つのもの、即ち抒情詩《じょじょうし》的情操(情緒)と叙事詩的情操(権力感情)とが、人文に於て常に対流することは、前章に述べた通りである。実に文芸の歴史は、この二つの感情の反復と、その争闘との歴史に外ならない。そしてあらゆる原則は、常に「反動」の一語に尽きている。即ち一方が抑圧すれば、他方が直ちに反動し、他方が時代を占有すれば、次には一方が興ってくる。この繰返しの反動は、力学的に決定された真理であって、歴史の永遠を通じて続くであろう。決していかなる時代も、その一方のみが、永く決定的に文明を独占することは有り得ない。
されば、今日の如き、近代文化のあらゆる女性化主義《フェミニズム》にかかわらず、人心の本源する一部に於ては、尚《なお》かつ権力感情の獅子《しし》が猛然と猛《たけ》りたっている。しかもそれは時代の潮流に適合するため、変装された女性化主義《フェミニズム》の仮面の下で、いつも本能獣の牙《きば》を研《と》ぎ光らしているのである。即ちあの聡明《そうめい》なニイチェが言ったように、現代に於ける女性化主義者《フェミニスト》、――平和主義者や、社会主義者や、無政府主義者や――は、すべて羊の皮をきた狼《おおかみ》であり、食肉鳥の猛々しい心を以て、柔和な福音を説く説教者である。確かに、彼等の主義は人道的で、彼等の思想は民衆的だ。しかもこれ等の説教者が意志するところは、民衆の上に働きかけ、彼等を支配し、文明に号令しようとするところの、極《きわ》めて貴族主義的な権力感の高調である。そして近代文明のいかなる女性化主義《フェミニズム》とデモクラシイも、これ等の「変装した貴族主義者」を殺し得ない。(現に資本主義の平民文明そのものが、これ等の変装的陰謀者によって危険視されている事実を見よ!)
さて詩の歴史に帰って行こう。詩の歴史に於ける古典の叙事詩や抒情詩やは、既に前の章で解説した。次には進んで、浪漫派以後に於ける近代の新しい詩と、これが姉妹文芸たる散文の歴史について考えよう。前の章で言ったように、近代に於ける詩の起元は、実に浪漫派によって始まっている。浪漫派以前の詩は、我々にとって古典であり、直接には縁の薄いものにすぎない。故に浪漫派は、実に近代詩の開祖であって、今日のあらゆる詩派に於ける母音のものは、すべて此処《ここ》に胚種《はいしゅ》している。しかしながら浪漫派の運動は単に詩壇の一局部にのみ、小波動を以て興ったのでなく、実に文学と芸術と、社会思潮の全般にわたって興ったところの、空前の花々しき大運動だった。それはルッソオによって刺激された、仏蘭西《フランス》革命の続きであって、資本主義文化の初頭に於ける自由主義の目ざましい凱歌《がいか》だった。(自由主義と女性化主義《フェミニズム》とは、必然にイコールであることに注意せよ。)
されば浪漫派の運動は、貴族主義に対する平民主義の主張であり、形式主義に対する自由主義の絶叫だった。それは芸術と文化に於ける、一切の権力感情を排斥し、すべての叙事詩的《エピカル》なものを抑圧した。近代の恋愛を主とする抒情詩的《リリカル》な小説が、一時に新しい文学的勢力を得て、古典の形式韻文を駆逐したのもこの時だった。此処でついでに言っておくが、古代に於て散文が軽蔑《けいべつ》視され、近代に至って逆にそれが優勢になってきたのは、実に新時代の自由主義が、韻文の如き形式主義の文学に反感し、より自由で平民的な散文に趣味を転じて来たからである。そして自由詩の本質に於ける精神が、同じくこの散文時代の趣味性を表象している。故にこの意味から言うならば自由詩は*散文的であるほど――即ち非律格的であるほど――真に本質的に自由詩なのである。
さて浪漫派の時代思潮は、過去の貴族文明への反感からして、一切の叙事詩的《エピカル》な精神を抑圧したが、これに対する反動の逆流は、当然また興らなければならなかった。そして実にこの反動は、芸術のあらゆる方面から興ったのである。しかしこれ等には、単に詩と小説との文学につき、反動の歴史を見れば足りる。先《ま》ず小説から始めて行こう。小説に於ける浪漫派の反動思潮は、人の知る如く例の自然主義である。この仏蘭西に興った自然派の文学主張が、本質的に何を意欲し、何を特色したものであるかは、既に他の章でしばしば詳説した通りである。即ちそれは「主観を否定した主観主義」の文学で、当時の情熱的なる人間主義者《ヒューマニスト》が、浪漫派の人道的センチメンタリズムに叛逆《はんぎゃく》し、愛や情緒やの虐殺を叫んだところの、一の抑圧されたる叙事詩精神《エピックハート》の爆
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