識が曖昧《あいまい》漠然としているのである。此処で諸君は、その個人的なる――自分だけで合点しているような――観念を捨て、何よりも先ず常識として、辞書の正解するところを知らねばならぬ。辞書の正解するところの韻文とは、一定の規則正しき拍節をもち、一定の法則されたる押韻や脚韻を蹈み、対比によってシラブルや語数を整えているところの、特殊な定形律の文章を言うのである。そしてこの定形律を持たないもの、即ち自由の音律によって書かれたものは、それ自ら所謂「散文」である。
 それ故に自由詩と称する詩が、言語の辞書的な解義に於て、始めから散文に属するのは明白である。少なくとも正確な意味で言われるところの、辞書の韻文には属してない。しかしながら自由詩は、何等か或る本質上の点に於て、普通の散文とはちがっているように思われる。そこで自由詩の解説は、常にしばしば「**無韻の韻文」「韻律なき韻律」の語で呼ばれている。だが自由詩の解説が、こうした言語の曲弁された、白馬非馬的のこじつけ[#「こじつけ」に傍点]をせねばならないというところに、その根本的の無理があることを考えてみよ。むしろ「無韻の韻文」などと言うよりは、はっきり[#「はっきり」に傍点]と思いきって、吾人は自由詩を散文――特殊の詩的散文――であると言った方が好くはないか。
 しかも人々は、何よりもこの断定を恐れている。あたかもこの断定から、自由詩が致命的に抹殺《まっさつ》されるように恐れている。何故だろうか? 自由詩が「散文」であるということは、自由詩が「詩でないもの」に属することを致命的に断定するように感ずるからだ。換言すれば「散文」という観念が、常に「非詩」という観念に結びついているからだ。そこで自由詩が詩であるためには、否《いや》でも応でも無理にこじつけ[#「こじつけ」に傍点]て韻文の仲間入りをせねばならない。(実にそれをしようとして、或る人々は自由詩を分析し、定律詩の法則を探している。だがもしそれが見つかったら、自由詩は自由詩でなく、それ自ら定形詩になるであろう。即ちこの奇妙な研究は、思想の大前提の中に結論の否定を予期している。)
 諸君の頭脳を明晰《めいせき》にせよ! すべてこうした混乱の生ずる所以は、始めから「韻文」と称する形式主義の定規によって、詩を定義しようとした誤謬《ごびゅう》にある。前に言う通り、詩には音律が必須である。しかも詩の表現は、必ずしも所謂韻文が意味する如き、クラシカルな定規的律格を必須としない。詩と他の文学とを形式上で別つものは、そうした定形韻律の有無でなくして、他のもっと根本的の点に無ければならない。
 詩が他の文学と異なる、根本の相違点は何だろうか? 言うまでもなく、それが「音律を本位とする表現」であることにある。すべての詩は、必ずしも規約された形式韻文ではないけれども、しかもすべての詩は――自由詩でも定律詩でも――本質上に於て音律を重要視し、それに表現の生命的意義を置いている。然るに他の小説等の文学は、この点で詩と異っている。もちろん前に言った通りこれ等の文学にも音律があり、自由律としての調子があるが、それが表現の主要事でなく、単なる属性事として取扱われている。詩以外の文学は、小説でも、感想でも、論文でも、すべて「描写――もしくは説明記述――を本位とする表現」である。
 詩と他の文学との表現上に於ける著るしい特色は、実にこの一事に存している。故に「韻文」という語を広義に解して、この意味での詩の特色、即ち「音律を本位とする文」とするならば、始めてこの言葉の中に自由詩も定律詩も包括され、もはやかの「無韻の韻文」と言う如き、意味の紛乱した謎語《めいご》によって、自由詩を曲弁する必要もなくなるだろう。そしてこの本質的なる韻文の定義に対し、散文の定義は「非音律本位の文」である故、この意味の言語ならば、自由詩は、決して散文に所属されない。
 されば要するに問題は、所謂「韻文」「散文」の言語に於ける、解釈の如何《いかん》にかかっている。もしこれ等の言語を文字通りに正解して、辞書的の形式観によるならば、それは「定則律」と「自由律」との対立になる故に、詩が韻文を意味する以上、自由詩は詩の仲間に這入《はい》れなくなる。然るに今日では、一般に人々が自由詩を肯定している。(昔はそれが中々《なかなか》肯定されなかった。自由詩が詩の認定を得るまでには幾多の長い議論が戦わされた。)故に今日の立場としては、言語の辞書的な解義を廃して、韻文を「音律本位の文」と考え、散文を「非音律本位の文」と考え、詩を定規的な形式観によらずして、本質上から定義せねばならないのである。

[#ここから3字下げ]
* 「大体に於ける法則」ということは、10[#「10」は縦中横]の中の8が正則で、2が変則であるという如き、数量の上の計算でない。この場合の「大体」は、法則の背後にある根本の大原理を指すのである。即ち自由詩の原理は「法則なき法則」に存するので、普通の意味の律格的形式とは、全然性質の異ったもの、それを以て律することのできないものである。尚次の註解を見よ。
** 「韻律なき韻律」という類の言語は、賓辞が主辞を否定することに於て、別の新しき定義を暗示しようとするのである。例えば「道徳なき道徳」という場合に、賓辞の道徳が意味するものは、過去の所謂道徳と全くちがった、別の新しい道徳を意味している。そしてこの新しき道徳Aによって、前の道徳Aを否定するから、「AはAに非ず」というこの矛盾命題が成立する。「韻律なき韻律」の場合もそうであって、賓辞の意味する韻律は、過去の言語が意味する所謂韻律や韻文とは、全く別種のものを指しているのだ。

 韻律という言語は、一定の規則正しき反復をもったところの、時間上の進行を意味している。例えば時計のチクタク、心臓の鼓動、海洋の波浪等であって、元来、規則正しきものを指すのであるから、自由詩にリズムの無い事は始めから解っている。否むしろ自由詩はかかる形式主義に反対し、リズムを破壊することに主張を持っている。この形式主義と自由主義との主張については後に公平な批判を以て見ようと思う。
[#ここで字下げ終わり]


     第二章 詩と非詩との識域


 前章に述べた通り、詩とは音律本位の文学であり、自由詩をも、定律詩をも、共に包括し得る意味の韻文――本質観としての韻文――である。しかしながらそうだとすれば、此処《ここ》にまた新しい疑問が起ってくる。もし単に詩の特色が、それだけの点にあるとすれば、いやしくも音律を以て本位とし、節づけられて歌われたすべてのものは、文学である限りに於て、必然に皆詩と言わねばならないだろう。然るに世の中には、実際そうでないものがある。例えばソクラテスが獄中で書いたイソップ物語の韻文訳や、アリストテレスが書いた韻文の論理学やは、形式上に於て確かに音律本位であり、文字通りの正しい韻文であるけれども、吾人《ごじん》はこれを詩と呼ぶべく躊躇《ちゅうちょ》する。またかの鉄道唱歌とか、地理の諳誦《あんしょう》のためにされた新体詩とか、道徳や処世の教訓にされる和歌の類とかも、同様に形式上のみの韻文であって、実質上から詩というべく適切でない。これ等の文学は、単に「詩の形式を借りた」ところの、別種の者に属する如く思われる。
 それ故《ゆえ》に詩の形式は、外部から借用されたものでなくして、内部から生み出されたところの、必然のものでなければならない。換言すれば詩とは、詩的な内容が詩的の形式を取ったもの[#「詩的な内容が詩的の形式を取ったもの」に丸傍点]でなければならない。では「詩的な内容」とは何だろうか。何がそもそも詩的であり、何が詩的でないだろうか? この問に答える前に、吾人は世俗の誤見に対して、逆に反駁《はんばく》しておかねばならぬ。なぜなら通俗の見解は、しばしば詩人を以て花鳥風月の徒と解し、吾人を一種の風流扱いにするからだ。実に我々詩人の心外に堪えないことは、今日の文壇や雑誌社すらが、詩の何物たるかを全く知らず、吾人に嘱するに自然の風物吟詠や、四季の変化に際する美文的随筆の類を以てすることである。かつて我々の昔の詩人は、好んでかかる風流閑雅の趣味を愛し、自然の詠吟を事としていた。だが今日の時代に於ける僕等の詩人が、いつまで同じことを繰返す義務がどこにあるか。そもそも世間は、あまりに日本人的なる、あまりに俳諧《はいかい》的なる「詩人」の観念から、いつまでたったら僕等を解放してくれるのか。
 さて「詩的なもの」は何だろうか? これについてはずっと前に、既に他の章で一言しておいた。即ち何が詩的であるかは、全く個人の趣味によって決定する。そこで昔の日本詩人は、季節の変化や自然の風物を詩的と感じた。だが今日の詩人たちは、社会や人生の多方面から、無限に変った詩的のものを発見している。例えば或る社会的な詩人たちは酒場や、淫売窟《いんばいくつ》や、銀行や、工場や、機械や、ギロチンや、軍隊や、暴動やから、彼等の詩的な興奮を経験して、そこに新しい詩材を求めている。そして他のより[#「より」に傍点]瞑想《めいそう》的な詩人たちは、人生や宇宙の意義について特殊な詩的なものを哲学的に観念している。
 されば詩的の本質は、個人の側にあって物の側に存しない。もし見る人が見るならば、宇宙に於ける一切の事物や現象やは、悉《ことごと》く皆詩的なものに感じられそうでないものは一も無かろう。実に詩人の為《な》すべきことは、人の無趣味とし、殺風景とし、俗悪とし、*プロゼックとするものに就いてさえ、新しき詩美を発見し、詩の世界を豊當にして行くことに存するのである。故に質問のかかるところは、詩的が何物であるかと言うのでなくして、物を詩的に感ずる態度[#「詩的に感ずる態度」に丸傍点]が、何であるかと言う点にかかってくる。そもそもこの特殊の態度、即ち詩的感動の態度が何だろうか。詩的精神の本体は主観であるから、詩的感動の本質は、それ自ら「主観的態度」に外ならない。換言すれば、主観的態度によって見たるすべてのものは、それ自ら詩的であって、詩の内容たり得るものである。
 では、主観的態度とは何だろうか? それが何であるかは、既に前に幾度か説明した。即ち主観的態度とは、事物を客観によって認識しないで、主観の中に融和させ、感情の智慧《ちえ》で見ることである。尚《なお》詳しく言えば、物について物を見ないで、主観の感情によって認識し、心情《ハート》の感激や情緒に融《と》かして、存在の意味を知る[#「意味を知る」に丸傍点]ことである。あらゆるすべての詩人たちは、皆この主観的態度によって宇宙を見ている。故に詩人の見る宇宙は、常に必ず詩的な意味をもつ宇宙であって、それ自身が直ちに詩の内容になってくるのだ。然るに素質的な詩人でない人々は、こうした主観的態度でなく、他の客観によって事物を見るから、たとい形式に於て韻律の規約を蹈み、或は和歌や俳句の格調を借用しても、真の文学的な批判に於て詩と言い得ないものしか出来ない。
 これによって吾人は、真に本質的に詩であるものと、形式のみの見かけの詩とを、判然として区別し得る。例えば、前の例に於て、ソクラテスの韻文やアリストテレスの韻文やは、真に心情《ハート》から感動して、彼等がそれを書いたのでなく、純粋に客観的な態度に於て、認識を認識とし理智を理智として書いたのである。これに対してニイチェのツァラトストラは、哲学が主観の中に取り込まれ、認識が感情によって融かされている。故に後者は本質の詩であって、前者は形式だけの似而非《えせ》詩である。しかしながらその場合にも、もしソクラテスが真にイソップ物語に感激し、それを主観の感情によって書いたならば、それは単に形式の韻文であるのみでなく、本質においても真の叙事詩で有り得たろう。アリストテレスの場合も同様であり、哲学が主観によって書かれたならば、ニイチェのそれと同じで有り得た。
 前にあげた他の例、即ち鉄道唱歌や、地理諳記唱歌や、和歌俳句の形式による古来の処世訓
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