、道徳訓の類も同じである。これ等の文学に於ける作家は、始めから何の主観的感動なしに、純に事実のために事実を書き、教訓のために教訓を教えている。しかしながら作者が、こうした客観の態度でなく、もし自ら真に感動して、或る道徳や処世上の観念にまで、主観に於ける心情《ハート》の意味を直感したら、その表現はすくなくとも本質上の詩に属する。故に例えば孔子や耶蘇《ヤソ》の道徳訓には、時にしばしば本質上での詩と見るべき文字がある。これに反して或る小説家等の作る俳句が、技巧と着想の妙を尽し、観照の至境に入っているにかかわらず、何かしら物不足で、詩としての霊魂がないように思われるのは、認識の態度が純粋に客観的で、対象について対象を観照し、これを主観の心情《ハート》に融解することがないからである。(「詩と小説」参照)
 以上述べたことによって、読者は似而非の詩と本物の詩、借用の韻文と実際の韻文とを、大体誤りなく判断することができるであろう。要するに真の詩は、「詩的の内容」が「詩的の形式」に映ったもので、この内容のない韻文は、実体なき欺瞞《ぎまん》の幻影にすぎないのである。けれども吾人は、作者に於ける主観的態度の有無――即ち詩的内容の有無――を、どうして実際の作物から判断することができるだろう? すべての芸術は、ただ表現を通してのみ理解し得る。吾人は表現の背後に住んでる、作者の心理や態度については、全く推察することができないのである。そして表現に現われたるすべてのものは、必然に何等かの形式を意味している。故に真の詩と似而非の詩との区別も、やはり表現の上に於て、何等かの形式で見る外はない。
 だがしかしこの問題は、数学の最も複雑な微分法を以てしても、到底計算できないところの、言語の微妙にして有機的な関係に属している。この点で言えば、芸術の意味はただ直感によって知られるのみだ。何故に或る詩は本物として感じられ、或る韻文は非詩として感じられるかということは、実に言語の語意や音韻に於ける組み合せの、複雑微妙なる関係にかかっている。そしてどんな人間の理性も、決してそれを計算し得ない。(もしそれの計算ができたら、人間は頭脳で名詩を創作し得る。)だがしかしこの場合にも、大体に於ける原則だけは、一般の作品を通じて普遍的に、まちがい[#「まちがい」に傍点]なく断定できる。即ち真に感情で書いたところの、実の本物の詩にあっては、言語が概念として使用されず、主観的なる気分や情調の中に融けて、それ自ら「感情の意味」を語っていることである。これに反して似而非の詩は、言語が没情感なる概念として、純に「知性の意味」で使用されてる。(ニイチェの哲学詩と他の学術の哲学とを、この点に於て比較してみよ。)
 されば詩的表現の特色は、要するに言語が「知性の意味」で使用されず、主として「感情の意味」で訴えられているということの、根本の原理に尽されている。詩が音律を必要とする所以《ゆえん》のものも、畢竟《ひっきょう》この原理に存するので、決して韻律のために韻律の形式を求めるのでない。ただ自然の結果として、それが「韻文的なもの」に成るというにすぎないのだ。要するところは音律が、言語としての最も強い感情を出し得る故に、それが詩の形式を決定して、常に第一義的なものと考えられてる。しかし音律以外の要素に於ても、言語は「感情の意味」を語り得る。即ち今言う通り、語義を概念として使用しないで、主観の感情に融かすことから、語感に於ける気分や情調を表現し得る。そして近代に於ける多くの詩(象徴派、写象派、未来派等)が、特にこの点を重要視することは、人の知っている通りである。
 それ故に詩の表現形式は、単に音律ばかりでなく、音律以外の言語的要素(語感、語情)と相待って、始めて完全することを知るであろう。そしてかく考えれば、詩に於ける音律性が、単にその重要なる一部にすぎず、必ずしも全般でない事が理解される。実に具体的なる詩と言うべきものは、音律や語感やの感情要素が、複雑なる有機的関係によって結合されたものであり、個々にその要素の一々を、抽象しては思考されないものである。故に詩の形式を定義するべく、実には何と言って好いだろうか。詩とは辞書が意味する通りの、形式的な韻文であると言おうか。否。もちろん否である。では韻文という語を広義に解して、自由詩や無韻詩をも包括し得る、本質上の韻文であると断定しようか。これ殆《ほとん》ど当っている。けれども尚、未だ十分に達していない。なぜならば前言う通り、世には音律あって詩的精神のない文学があり、そしてこの種のものは、自由律に於てさえも絶無を保証し得ないからだ。
 詩の形式とは何ぞや? 実に残された問題は、この命題への解答である。どこかそこには、一言にして万事を言い尽し得るような、詩的表現の全般に行き届いた、真の判然明白なる答案があるように、有るべき筈《はず》だと感じられる。そしてこの解答が、もし完全にできるならば、その時始めて吾人は、真に詩的表現の何物たるかを、まちがい[#「まちがい」に傍点]なく正確に、かつ完全に知り得たのである。さらに進んで、徹底的に考を進めて行こう。

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* 最近の世界詩壇は著るしく散文的《プロゼック》になり、唯物論的になり、機械観的になり、科学的にさえも傾向している。これ表面には、詩の散文的没落を意味する如く思われるが、実には何の心配もないのである。なぜならこうしたものは、すべて詩の題材に属していて、詩の本質的精神に関係していないからだ。換言すれば、それらの唯物界や機械界やは、詩人によって新しく発見された詩美であって、趣味としての選択に属している。然るに趣味(即ち芸術の題材)は、詩の本質的精神とは関係なく、時代によって常に流動変化するものである。即ちプロゼックなものは流行であって、本質に於けるものは不易である故、詩は永久にその精神を没落しない。芭蕉《ばしょう》はこの真理を言明するため、有名な「不易流行」の標語を作った。詩人は不易流行でなければいけない。(ついでながら言っておくが、近頃我が文壇で言われるマルクス的文学論が、芸術に於ける流行性と不易性とを、認識の蒙昧《もうまい》から錯覚している。芸術の不易性は個人主義で、流行だけが社会主義になるのである。)
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     第三章 描写と情象


 人間の発想の様式は、原則として三種しかない。「記述」と「説明」と、そして「表現」である。記述とは或る事柄を述べるもので、学術では歴史がこれを代表している。説明は弁証や解義に関するもので、一般の抽象的論文、及び多くの哲学科学がこれに属する。故《ゆえ》に記述と説明とは、共に広義の学術に属するもので、芸術に属するものでない。芸術に属するものは、最後の表現あるのみである。もちろん広い意味での芸術――例えば文学的評論等――には、記述や説明に類するものが混じているが、すくなくとも純粋の意味で言われる芸術品(創作)には、まったくそうした要素がない。芸術は常に表現の様式で発想される。
 そこで表現の形式には、音楽があり、美術があり、舞踊があり、演劇があり、文学があり、実に種々雑多であるけれども、これを本質に於ける態度の上から観察すれば、あらゆる一切の表現は、所詮《しょせん》して二つの様式にしかすぎないのである。即ちその一は「描写」であって、美術や小説がこれに属する。描写とは、物の「真実の像《すがた》」を写そうとする表現であり、対象への観照を主眼とするところの、知性の意味の表現である。然るに或る他の芸術、例えば音楽や、詩歌《しいか》や、舞踊等は、物の「真実の像」を写そうとするのでなく、主として感情の意味を語ろうとする表現である故に、前のものとは根本的に差別される。この表現は「描写」でない。それは感情の意味を表象するのであるから、約言して言えば「情象」である。
 かく一切の表現は、二つの様式に分類される。「描写」とそして「情象」である。実にすべての芸術は――それが純芸術である限り――二つの何《いず》れかに属している。あらゆる芸術は「描写する」か、でなければ「情象する」かの一であり、それ以外に表現はない。もし有るとすれば、それは両者の混同であり、二つの中間に居る表現である。即ち例えば、バレー(劇的舞踊)の如き、メロドラマの如きそうである。これ等のものは、一方に於て美術のように描写しつつ、一方に於て音楽のように情象している。即ちそこには「知性の意味」と「感情の意味」とが混合している。けれども大体に於て見れば、バレーやメロドラマのようなものは、主として感情本位であり、情象する方の芸術に属している。これに対して純粋の写実劇等は事実の意味を語ろうとする描写である。次にこの両派の対象を表に示そう。
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  ┌情象[#「情象」は太字]―音楽・詩・舞踊・歌劇
表現┤
  └描写[#「描写」は太字]―美術・小説・科白劇・写実劇
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 此処《ここ》に至って吾人は、前章に預けておいた宿題を、再び改めて提出しよう。詩とは何だろうか? 詩の表現に於ける定義は如何《いかん》? 詩は音楽と同じく、実に情象する[#「情象する」に丸傍点]芸術である。詩には「描写」ということは全くない。たとい外界の風物を書く時でも、やはり主観の気分に訴え、感情の意味として「情象」するのだ。即ち表現についてこれを言えば、詩とは主観に於ける意味を、言語の節《ふし》や、アクセントや、語感や、語情やの中に融《と》かして、具体的に表象しようとする芸術である。故に詩を特色する決定の条件は、必ずしも形式韻律の有無でなく、又自由律の有無でもなく、実にその表現が、本質に於て「情象」であるか否かにかかっている。もし実に情象であるならば、言語は必然に「感情の意味」で使用され、語韻や語調や語感やの、あらゆる情的要素を具備するが故に、その表現は、必然にまた、音律的、韻文的の特色をもち、かつ語感や語情の点に於ても、十分の詩的ニュアンスをもつようになるであろう。
 それ故に「詩」と「詩でないもの」との区別は、本質に於てそれが情象であるかないかという、一の根本的な決定にかかっている。この点さえはっきり[#「はっきり」に傍点]掴《つか》めば、他の一切の形式は問題でなく、ウソの詩と本当の詩、詩と詩でないものとの判定が、文学の第一原理として解ってしまう。そこで詩の正しい定義は、それが文学としての情象表現であると言うことに帰結する。即ち命題すれば、詩とは情象する文学である[#「詩とは情象する文学である」に丸傍点]。そして実にこの定義が、詩の形式する一切を言い尽している。すくなくともこの点では、もはや議論は終結した。故に上来述べ来《きた》った、他のより[#「より」に傍点]皮相見の――しかしながら一般的に信じられている――別の二種の詩の定義と、この最後に提出された新定義とを、左に並列して書いてみよう。
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A、詩とは形式韻文である。
B、詩とは音律を本位とする文学である。
C、詩とは情象する文学である。
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 三種の中で、何れが果して真であるかは、読者の比較と判断に任すのみだ。しかし注意しておきたいのは、この中でAが最も狭義であり、Bがやや広く、Cが最も広義であるということである。詳説すれば、Aの中にはBもCも包括されない故に、諸君にしてもしAを選べば、自由詩や散文詩やは、勿論《もちろん》「詩」の仲間に這入《はい》れなくなる。然るにBはより[#「より」に傍点]広義である故に、この中には定律詩も自由詩も、共に両方を包括され得るだろう。しかしながら近来の或る特殊の詩、例えば未来派等の或る者に見る*絵画風な詩は、やはり「詩」の範疇《はんちゅう》の外に逐《お》い出される。なぜならばこの種の者には、音律が殆《ほと》んどなく、かつそれを本位にしていないからだ。ただ最後に、第三のCを定義する限り、すべて一切の新しい詩が、残らず皆完全に包括されることができるの
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