に今日世界に於て最も広く読まれている文学が、だれの何の作であるかを考えてみよ。芸術的高級の作品としては常にユーゴーとトルストイである。そして特に『レ・ミゼラブル』と『復活』である。或《あるい》はまたジューマである。バルザックである。到るところに、常に民衆によって読まれるものは、倫理感や宗教感を高調している文学である。抒情詩的もしくは叙事詩的陶酔感をあたえるところの浪漫主義的傾向の文学である。民衆は客観的芸術を欲しない。彼等の常に欲するのは、情熱的たる主観主義の文学であり、詩的精神のある文学である。
所謂《いわゆる》「*大衆芸術」と称するものがこれによってまた民衆の間に喝采《かっさい》されている。文学ばかりでなく、演芸に、活動写真に、到るところの世界に於て、吾人はこの種の芸術を発見する。それは一つの、民衆を「悦ばすため」の、娯楽としての芸術である。だが彼等の目的から、何をしているだろうか。それはあらゆる最高の手段に於て、民衆の倫理感をあおり立てる。恋が破れ、貞操が失われ、血が流れ、義人が殺され、善人が迫害される。でなかったらばあらゆるロマンチックの冒険と怪奇によって、宗教感のセンチメントを高調させる。しかもこの感激的高調にかかわらず、すべての出来るだけの無内容と、できるだけの愚劣な馬鹿馬鹿しさとで、民衆の甘ったるい理解力に訴えるべく、用意を十分に備えている。
たれでも我々は、こういう芸術を軽蔑する。ところが民衆には、これがいちばん悦ばれるのだ。なぜなら民衆は、永遠に稚気芬々たる子供であって、真の高いもの、美しいものを理解できないから。しかも彼等は、常に渇《かわ》くように詩を求めている。どこにでも、ただ詩が――詩的な感激が――有りさえすれば好いのである。たとえば彼等は、丁度腹の空《す》いた子供に似ている。何でも好い。詩でありさえすれば食おうとする。しかもまだ不幸なことに、彼等の味覚は低劣であり、胃袋は駄菓子によって傷害されている。民衆は一のいじらしく、純良なる、しかしながら憐《あわ》れむべき貧民の子供である。
それ故に吾人《ごじん》は、民衆に対して二つの別な感情――愛と軽蔑と――を、同時に矛盾して持たざるを得ないのである。彼等は「善き素質」を持ちながら、しかも「悪《あ》しき境遇」に育っている。一方から考えれば、彼等ほどにも詩を愛し、詩を尊敬している種属はなく、しかも一方から観察すれば、彼等ほどにも詩を冒涜《ぼうとく》し、詩を理解しない種属はないのだ。故に正義は、彼等に対して価値を教え、より高き内容に於けるところの、真の芸術的な詩を教えてやることに存するのだ。我々の教育は、民衆からそのセンチメンタリズムを殺すのでなく、逆にそれを高く活《い》かして、より程度の高い山頂に導くのだ。
故にこの点の結論で、吾人は全くロマン・ローランと一致する。ロマン・ローランによれば芸術の健全な発育は、常に民衆によってのみ、民衆的な精神によってのみ、建設されねばならないというのである。この思想は正しく、真理の立派なものを有している。特に就中《なかんずく》、日本の国情に於て適切している。なぜなら現時の日本に於て、真に詩的精神を有する者は、ひとりただ民衆あるのみだから、そのあらゆる稚気と俗臭にかかわらず、民衆は常に健全であり、芸術の正しき道を理解している。彼等は指導によって善くなるだろう。然るに日本の文学者等は、素質的に何物も持っていない。単に詩ばかりでなく、芸術的良心すらも持っていない。そして日本の文壇と思潮界は、このノンセンス等によって支配されている。救いがたい哉《かな》! 吾人はむしろ彼等を捨て、民衆の群に行かねばならぬ。民衆のみが、実に新しき日本の文学と文明を創造するのだ。
かく結論してくれば、吾人もまた一個の民衆主義者になってしまう。だが誤解する勿《なか》れ、著者は民衆に諂《へつ》らうところの民衆主義者でなく、逆に彼等を罵倒《ばとう》し、軽蔑するところの民衆主義者だ。なぜなら民衆は、彼等を甘やかすことによって益々《ますます》堕落し、鞭撻《べんたつ》することによって向上してくるからだ。吾人が今日の社会に望むものは、民衆と同じ側に立って演説する人――彼等はあまりに多すぎる――でなくして、むしろ彼等に対抗し、反対の側に立っていながら、しかも根柢《こんてい》の足場に於て、民衆と同じ詩的精神の線上に立っているところの、一の毅然《きぜん》たる風貌《ふうぼう》を有する人物である。
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* 最近、日本に現れた「大衆文学」というものは、どんな芸術的主張をもつのか解らないが、とにかく現文壇への解毒剤《げどくざい》として、一つの公開さるべき処方である。医師は救いがたい病気に対して、時に毒薬をすら調合する。
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形式論
第一章 韻文と散文
詩とは「詩的精神」が「詩の表現」を取ったものであることを、本書の始めに於て述べておいた。詩的精神は内容に属し、詩の表現は形式に属している。ところで詩的精神の何物たるかは、以上既に説き尽した。以下|吾人《ごじん》は、主として詩の表現形式について考えよう。
しかしながら芸術に於ける内容と形式とは、一枚の板の裏と表、人物とその映像、実体と投影のようなものであって、一方の裏を返せば一方が出、一方が動けば他方も動き、相互に不離必合の関係になっている故《ゆえ》、既に詩の内容について学んだ読者は、これが映像さるべき詩の形式が、およそ大体に於てどんなものかを、説明以前に推察することができるだろう。しかしとにかく、説明を続けなければならない。
第一に言うべきことは、言語はすべて関係であり、比較に於てのみ、実の意味をもつということである。故に絶対の意味で差別さるべき、詩と詩でないものとの関係は、決して事実上に有り得ない。ただ抽象上の概念としてのみ、吾人はかかるものを考え得る。そこで今、広く事実について見れば、殆《ほとん》ど大抵の文芸は、広義にみな「詩」と呼ぶことができるだろう。なぜなら前に説いたように、何等か本質に詩的精神のない文学というものは、事実上には殆ど有り得ず、そしてこの内容がある以上には、必ずその映像した形式――詩的表現そのもの――がある筈《はず》だから。しかしながら吾人は、比較の関係に於てのみ、言語の使用を許されている。以下言う意味の「詩」という言語は、他のより[#「より」に傍点]詩でない表現に対するところの、比較の純粋なるものを指すのである。
さて詩の有り得べき、実の形式はどうだろうか。換言すれば、詩が真に詩であるためには、どんな言語の表現を持つべきだろうか。言うまでもなく詩の形式は、詩的精神それ自体の投影したものでなければならぬ。然るに詩的精神とは、それ自ら主観的精神を指すのであるから、他の文学との比較に於て、主観の最も純粋に、かつ高調されたものの投影が、それ自ら必然に「詩の形式」を取るであろう。しかしながら吾人は、もっと具体的な思考によって、形式の説明をせねばならない。
第一に明白なのは、詩が文学であり、言語の文字的表現であるということである。故に音楽や舞蹈の類は、精神に於ていかに詩的であっても、それは「詩」の言語に属しない。言語の正しい意味に於ける詩は、常に文学としての詩を指示する。他はすべて「詩的なもの」にすぎないのだ。故に詩について考える時、必然に言語の表現性について、考を進めねばならなくなる。そこで言語は、二つの発想的要素を持っている。一つは用を弁じ、事実を語り、事柄の意味を知らせるところの要素、即ち語義――もしくは語意――であって、これが言語に於ける実体的の要素であるが、他にも尚《なお》、言語は別の要素を持っている。即ち談話にはずみ[#「はずみ」に傍点]をつけ、思想に勇気や情趣を与えるところのもの、即ち所謂《いわゆる》語韻、語調である。この二つの要素の中、前の者は言語の「知的な意味」を語り、後の者はその「情的な意味」を語る。但しこの後のものはそれ自体としては独立し得ず、常に前の意味と結びついてのみ存在するが、詩は本来情的な主観芸術である故に、特にこの点が重要視され、表現の必須《ひっす》なものとして条件される。
此処《ここ》でまた繰返して言うことは、主観芸術の典型が音楽であり、客観芸術の代表が美術であるということである。故に詩はいつも音楽のように歌い[#「歌い」に傍点]、小説は常に絵画のように描写[#「描写」に傍点]する。そして実に東西古今、詩が音楽を規範とし、音律を以て形式とする所以《ゆえん》が此処にある。即ち所謂「韻文」「散文」の差別であって、詩が他の文学と異なる所以は、ひとえにその韻文の形式にあると思惟《しい》されている。しかしながら元来言えば、詩が音楽に学ぶところは、その精神にあって形式にない。換言すれば、詩は音楽のように歌い、音楽のように魅力することを欲するけれども、必ずしも音楽が具備する楽典の法則を、そのまま襲用する必要はない。なぜならば詩は文学であり、言語を用いる表現である故に、自《おのず》から音楽と異なる独自のものが、別に特色さるべき筈である。
然るに所謂「韻文」と称するものは、音楽の楽典に於ける拍節の形式を、そのまま言語に直訳したようなものであって、極《きわ》めて定規的なる形式主義のものである。故に吾人は、かかる形式的韻律の有無を以て、詩と非詩とを判然区別しようとする如き、一部の人々等の意見に賛成できない。もちろんかかる思想は、詩という形式に関聯《かんれん》して、長く一般に伝統されている。だが伝統的な思想が常に必ずしも真理とは言えないだろう。況《いわ》んや今日に於ては、現に自由詩と称する如き無韻の詩が一般に詩として肯定されている事態であるから、吾人の最も遠慮がちな意見に於ても、それが詩の絶対的条件でないことを断言し得る。
けれども始めに言う通り、詩は本来感情の文学である故に、言語のスピリットたる音律なしには勿論《もちろん》真の表現は有り得ない。そして音律がある以上には、自然に音楽の法則するところの、何等かの黙約的一致が無ければならない。詳説すれば、楽典的形式に於ける符合でなくして、楽典の背後にある音楽の根本原理――音の関係に於ける美の根本法則――と、或る本質的なる、*大体に於ける一致[#「大体に於ける一致」に丸傍点]があるべき筈だ。なぜならば言語の語調や語韻やも、それが「音」として響く限りは、必然に音楽の本質的原理に属するから。そこで「韻文」という言語を、形式定規の窮屈な意味に解しないで、大体として根本の音楽原理に適《かな》っているところの――したがって耳に美しい響を感じさせるところの――一種の節《ふし》をもった文章と解するならば、その場合にこそ、一切の詩は皆韻文であり、また必然に韻文でなければならないと言い得るだろう。
しかしこうなってくると、問題はまた困難に紛乱してくる。なぜならばその意味での韻文は、あえて独《ひと》り詩ばかりでなく、散文にも同様に言い得るからだ。文学はすべて言語の「綴《つづ》り方」であり、そして綴り方のあるところには必然に文章の調子があり、節がありアクセントがあり、はずみ[#「はずみ」に傍点]がある。そしてこの点では、小説も論文も皆同じである。どんな文学でも、言語の音調を持たないものや、それを全く無視した文章は有りはしない。そしてこれらの散文に於ける音律は、何等一定の拍節形式を持たないところの、しかも根本に於ては音楽の原理に適っている――でなければ美しく聴《きこ》える筈がない――ところの、真の自由律の形式である。
故に韻文という言語を、前に言ったような広義の意味で、ルーズに漠然と解する限りは、一切の散文が皆その概念に包括され、言語が全くノンセンスになってしまう。実に今の詩壇に於ける認識不足は、「韻文」「散文」の言語に対して、一も人々が定義を持っていないという事である。即ち本書の巻頭「詩とは何ぞや」で言ったように、かかる言語に対する解釈が、人によって皆異なり、認
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