ェ、トルストイ等の詩学的人生評論の類が、みなこれに類している。
 しかし哲学という言語の、さらに一層本質的に拡大された範囲に於ては、すべてイデヤを有する主観、及び主観的表現の一切を包括する。即ち例えば、これによって「芭蕉《ばしょう》の哲学」とか「ワグネルの哲学」とか「*浮世絵の哲学」とか言われ、さらに或る芸術や文学やが、哲学を有するか否か等が批判される。この意味でいわれる哲学とは、哲学的精神に於ける究極のもの、即ち「主観性」について言われるのである。故に「哲学がない」と言うことは、主観性の掲げるイデヤがない、即ち本質上の詩がないという意味である。かのゲーテが「詩人は哲学を持たねばならぬ」と言ったのも、勿論《もちろん》この意味を指すのであろう。

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* 浮世絵の哲学は或る頽廃《たいはい》的なる官能の世界に没落し、それと情死しようとするニヒリスティックなエロチシズムで、歌麿《うたまろ》や春信《はるのぶ》が最もよく代表している。
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 最後に、詩的精神の最も遠い極地に於て、科学の没主観な太陽が輝やいている。明白に、だれも知っている如く、科学は主観
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