は一もない。逆にまた、かかる主観的精神に触れてくるすべてのものは、何物にもあれ、それ自体に於ての詩である。
 故に「詩」と「主観」とは、言語に於てイコールであることが解るだろう。すべて主観的なるものは詩であって、客観的なるものは詩でないのだ。しかし吾人は、此処で一つの疑問が提出されることを考えてる。なぜなら本書のずっと前の章(主観と客観)で言ったように、詩それ自体の部門に於て、主観主義と客観主義との対立があるからだ。詩がもし主観と同字義であるならば、詩に於ける客観派と言うものは考えられない。次にまた或る多くの芸術品は、極《きわ》めて客観的なレアリズムでありながら、本質に於て強く詩を感じさせる魅力を持ってる。これはどうしたものだろうか。すべてこれ等のことについて、本篇と次篇の全部にわたり、徐々に解明して行くであろう。

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* カントは「理性」を二部に区分し、因果の理性と自由の理性を対立させた。即ち所謂「純粋理性」と「実践理性」とがこれである。カントの意味では、この自由の理性が倫理にのみ関している。しかしそれが「感情の意味」を指す限り、単なる道徳感ばかりでなく、芸術上
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