して表現を生み出さないということである。芸術に於て、感情はその動機――芸術を生もうとする熱意にすぎない。表現するものは感情でなく、この感情を鏡に照し、文学や音楽やに映すところの、知性に於ける認識上の才能である。
この事実を知るために、先《ま》ず音楽について考えよう。音楽は主観芸術の典型であり、純一に感情的な表現であるけれども、智慧のすぐれた観照なしには、その最も単純な小唄《リード》すら作り得ない。なぜなら音楽の表現は、音の高低強弱に於ける旋律とリズムを通じて、心の悲しみや喜びやを、それの気分さながら[#「さながら」に傍点]に描出するのであるから、音楽家が音によって心内の情緒を描くのは、画家が色や線やによって、外界の物象をさながら[#「さながら」に傍点]に描くと同じく、ひとしく対象の観照である。ただ両者の異なるところは、その対象が心内と外界と、時間と空間とに於ける別にすぎない。
抒情詩《じょじょうし》がこれにまた同じである。詩人にしてよく感情の機密を捉《とら》え、それの呼吸や律動やを真さながらに表現するのでなかったら、どうして詩が人を感動さすことがあり得ようか。そして「表現する」こと
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