は、それ自ら「観照する」に外ならない。故にもし感情のみが高調して、これを観照する智慧が無かったならば、吾人は野蛮人や野獣のように、ただ狂号して吠《ほ》え、無意味な絶叫をするのみだろう。けだし詩人と一般人と、芸術家と一般人との、ただ一つの相違が此処《ここ》にある。前者はそれを表現し得[#「表現し得」に白丸傍点]、後者はそれを表現し得ない。
さればいやしくも表現があり、芸術があるところには、必ず客観の観照がある。実に伊太利《イタリー》の美学者クローチェが言う如く、認識(観照)に無きものは表現に無く、表現に無きものは認識にないのである。吾人は知らないことを書き得ない。そして「知る」ということは、芸術上の言語で「観照」を意味するのだ。故に「観照」と「表現」とは同字義《シノニム》であり、したがってまたそれが「芸術」とイコールである。実に人間のあらゆる生活《ライフ》は、ひとしく常に考え、ひとしく悩み、ひとしく感じ経験している。しかも大多数は表現し得ず、芸術家のみが為し得るのは何故か。これ彼等にのみ恵まれたる特殊の才能、即ち所謂《いわゆる》「芸術的天分」があるからである。
故に一切の芸術は、音楽
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