いるためである。
 しかしながら言うまでもなく、こうした称呼はもはや、今日のものでなく、かのゴシック建築の寺院と共に、古風な中世紀の遺風に属している。今日の時代思潮に於ては、もはや「美」や「芸術」やの言語が、カトリック教的叛逆の「異端」を意味していない故に、我々の文壇がこうした古風の遺風の意味に於て、唯美主義や芸術至上主義を言語するのは馬鹿げている。今日の意味に於て、正しく唯美主義と言わるべき芸術は、人間感や生活感やを超越したところの、真の超人的なる芸術至上主義――即ち純一に徹底したる「芸術のための芸術」――についてのみ思惟《しい》されるのだ。

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* 生活 Life という言語が、日本に於てそうした卑近の意味に解されるのは、日本人そのものが非常に――おそらくは世界無比に――現実的の国民であって、日常起臥の身辺生活以外に、いかなる他の Life をも考え得ないからである。この現実的な思想は、俳句や茶の湯の如き、民族芸術の一切に現われている。特に茶道の如きは、日常起臥の生活を直ちに美化しようとするのであって、芸術的プラグマチズムの代表であり、日本人の Life に対
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