は、前説の如く主観の生活イデヤを追う文学であり、それより外には全く解説がないのである。故《ゆえ》に例えば、ゲーテや、芭蕉《ばしょう》や、トルストイやは、典型的なる「生活のための芸術家」である。かの異端的快楽主義に惑溺《わくでき》したワイルドの如きも、やはりこの仲間の文学者で「生活のための芸術家」である。なぜなら彼は、極《きわ》めて詩人的なるロマンチックの情熱家で、生涯を通じて夢を追い、或る異端的なる美のユートピアを求めていたから。然るに世人は、往々にしてワイルド等を芸術至上主義者と言い、芸術のための芸術家と称している。この俗見の誤謬《ごびゅう》について、ついでに此処《ここ》で一言しておこう。
元来「芸術のための芸術」という標語は、ルネサンスに於ける人間主義者《ヒューマニスト》によって、初めて、標語されたものであって、当時の基督《キリスト》教教権時代に、文芸が宗教や道徳の束縛を受けるに対し、芸術の自由と独立とを宣言した言葉であった。即ち人間主義者《ヒューマニスト》等が意味したところは、芸術が「教会のため」や「説教のため」でなく、芸術それ自体のために、芸術のための芸術として批判さるべきこ
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