解りきってる話だから。ではこの「ため」は、「利用する」「役立てる」という意味になるのだろうか。過去の自然主義の文芸では、多分にそう解したらしい。だがそうとすれば、一層以て不可解であり、奇怪千万な謎語《めいご》である。なぜなら細民窟《さいみんくつ》のじめじめ[#「じめじめ」に傍点]した長屋住いや、おつけ[#「おつけ」に傍点]臭い所帯話やを書いた文学が、実生活のための利益になるということは、いかにしても考え得ないから。
 読者にして常識あらば、今日の文壇でかかる啓蒙は無用であろう。文芸は、単に「生活を描く」ことによって「生活のため」と呼ばれるのでなく、生活に理念を有し、イデヤに向っての意欲を掲げることによって、特に「生活のための芸術」と呼ばれるのである。況《いわ》んや生活の語を狭義に解して、日常茶飯の身辺的記録の類を、没主観の平面描写によって書く文学が、何等「生活のための芸術」でないことは明らかだ。否、日本の文壇常識で言われる生活主義の芸術とは、一種の茶人的身辺小説のことであって、真の「生活のための芸術」とは、全然立場を反対にする文学である。
 真の意味で「生活のための芸術」と言われるもの
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