悉《ことごと》く皆「生活のための芸術」に属するだろう。なぜならば生活、即ち Human−life を書かない芸術というものは、一として実に有り得ないからだ。即ち或る者は思索生活を、或る者は求道生活を、或る者は性的生活を、或る者は孤独生活を、或る者は社会生活を書いている。
 しかし過去の日本文壇では、この「*生活」という語が狭義に解され、主として衣食のための実生活、もしくは起臥茶飯《きがさはん》の日常生活を意味していた。それで所謂「生活を描く」という意味は、米塩のための所帯暮しや、日常茶飯の身辺記事やを題材とするという意味であって、これが即ち所謂「生活派」の文芸だった。だが「生活のための芸術」ということは、本質に於てそうした文芸とちがっている。もしその種の文芸が、実に「生活のため」と言われるのだったら、この場合の「ため」は何を意味するのか。それが for の意味、即ち生活に向って、生活の目標のためでないことは明らかだ。なぜなら茶を飲んだり、無駄話をしたりする日常生活や、或《あるい》は単に米塩のために働らいてる生活、即ち単に「生きる」ための実生活やに、何のイデヤも目標もないことは、初めから
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