述べたところによって、吾人《ごじん》は「生活のための芸術」と「芸術のための芸術」とを明解した。芸術上に於て言われるこの対語は、以上述べたことによってその本質を尽している。決してこれより他には、どんな別の解釈も有り得ないのだ。然るに日本の文壇では、不思議に昔から伝統して、あらゆる言語が履《は》きかえたでたらめ[#「でたらめ」に傍点]の意味で通っている。例えば芸術至上主義という語の如きも、日本では全く正体の見ちがった滑稽《こっけい》の意味に解されてるが、同様にこの「生活のための芸術」という語の如きも、殆《ほとん》ど子供らしく馬鹿馬鹿しい解釈で、昔から文壇に俗解されてる。この章のついでに於て、簡単に稚愚《ちぐ》の俗見を啓蒙《けいもう》しておこう。
 日本の過去の文壇では、この「生活のための芸術」という命題を、単に「生活を描く芸術」として解釈した。これがため所謂《いわゆる》生活派と称する一派の文学が、僭越《せんえつ》にも自ら「生活のための芸術」と名乗ったりした。この所謂生活派の何物たるかは後に言うが、もし単に「生活を描く」ことが、生活のための芸術であるとすれば、東西古今、あらゆる一切の文芸は、
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