て、観念によって全く説明し得ないもの、純一に気分としてのみ感じられる意味である。芭蕉《ばしょう》はこのイデヤに対する思慕を指して「そぞろなる思い」と言った。彼はそれによって旅情を追い、奥の細道三千里の旅を歩いた。西行《さいぎょう》も同じであり、或る充たされない人生の孤独感から、常に蕭条《しょうじょう》とした山家《やまが》をさまよい、何物かのイデヤを追い求めた。思うに彼等の求めたものは、いかなる現実に於ても充足される望みのない、或るプラトン的イデヤ――魂の永遠な故郷――へののすたるじや[#「のすたるじや」に傍点]で、思慕の夢みる実在であったろう。
思うにこうしたイデヤは、多くの詩人に共通する本質のもの、詩的霊魂の本源のものであるか知れない。なぜなら古来多くの詩人が歌ったところは、究極に於ては或る一つの、いかにしても欲情の充たされない、生《ライフ》の胸底に響く孤独感を訴えるから。実に啄木《たくぼく》は歌って言う。「生命《いのち》なき砂の悲しさよさらさらと握れば指の間より落つ」「高きより飛び下りる如き心もてこの一生を終るすべなきか」と。彼の求めたものは何だろうか――おそらくそれは啄木自身も
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