くの生命感ある芸術品は、すべて表現の上に於て、こうした具体的イデヤを語っている。例えばトルストイや、ドストイエフスキイや、ストリンドベルヒやの小説は、各々の作家の立場に於て、何かしらの或るイデヤを、人生に対して熱情している。吾人は彼等の作を通して、そうしたイデヤの熱情に触れ、そこに或る意味を直感する。しかもこれを言語に移して、定義的に説明することが不可能である。なぜならばそれは主義でなく、理想というべきものでもなく、ただ具体的の思いとして、非概念的に直感されるものであるから。そして芸術に於ける批評家の為《な》すべき仕事は、かかる具体的イデヤを分析して、これを抽象上に見ることから、或《あるい》はトルストイについて人道主義を発見し、ストリンドベルヒについて厭世観《えんせいかん》を発見したりするのである。
 同様のイデヤは、絵画についても、音楽についても、詩についても発見され、すべて本質は同じである。しかし就中《なかんずく》、詩は文学の中の最も主観的なものである故、詩と詩人に於てのほど、イデヤが真に高調され、感じ深く現われているものはない。詩人の生活に於けるイデヤは、純粋に具体的のものであっ
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